BLACK(1)

 すばるの置いていった課題と、
 すばるの置いていったイーゼルと画材を学校に持って行った。
 会おうと思えば簡単に会えただろうけど、俺はすばるに会わず、先生にそれらを渡して足早に学校を去った。

 高嶋も坂森も何も言わなかった。
 何も言う事がないだけなのかも知れないけど
 女将や高嶋や坂森たち、俺を責めない人たちが皆、俺を責めているように思えた。
 俺はすばるを何だと思っていたんだろう。
『ユージって人、あたるのおホモだちか何か?』
 そう言ったすばるはどんな答えを期待していたんだろう。
 優司がもしそう訊かれたら、
 優司は何と答えただろう。
 俺は優司の、どんな存在?
 ……怖くてそんなこと、一度も訊けたことがなかった。
 どんな存在だろうと優司はここに居て、
 帰るところがなかったから何処にも行ってしまわないだろうと甘んじていた。
 なのに、どんな存在なのかなどと尋ねたら
 俺を何とも思っていないかも知れない優司に嫌われてしまいそうで。

「……優司」
 暗闇に浮かぶ深い青。
 キャンバスに絵の具を乗せていきながら優司は何を考えていたんだろう。
 俺はただ優司に嫌われたくなくて
 優司にとって俺と、俺以外の人間を区別する所は
 優司が他の誰でもない俺の傍で眠っているという事くらいで
 他の人とは軽口を叩くことが少なくても、俺には少し笑って見せたりもして
 ――俺の知る限りではそれだけでも、十分嬉しいことだった。
 俺はただ優司が大切で、若葉の先から今にも落ちそうに震えている露を扱うみたいに丁寧に、優しく愛した。
 愛していた。
 優司が車にはねられたという報せを受けても俺には何も感じられなかった。
 優司は何処にも行くところがなくて
 それなのに俺の手の届かない、一番遠い所へ行ってしまった。
 優司にとって唯一の肉親だった姉の所へ。
 俺が愛しても愛しても、彼には届かなかった。
 俺のところから逃げていってしまった。
「優司」
 何処を探しても優司は居なかった。
 優司の行動範囲なんて限られていて、その内の何処を探しても優司は居なかった。
 アトリエにも俺の家にも、初めて優司に会ったレストランにも。
 俺が優司を探していたら坂森たちがやってきて
 優司はもう何処にもいないんだと言った。
 何処にもいないってどういう事だ、と
 俺は体中の力すべてを使って叫んだ。
 優司が何処にもいないなんて、冷たい体になってしまったなんて、
 理由が判らない。
 どうして優司ばっかりいつも寂しくて、いつも哀しくて
 だから俺は、優司を独りにさせないように側にいたのに。これからだってずっとそうするつもりでいたのに。
 俺も一緒に行きたかった。
 ついて行きたかった。
 冷たくなった優司の体を抱いて、永遠に息を止めて。
 
 朝が来るたび、俺はこの世を呪った。
 俺が此処にいて、優司がいなくて
 優司を残して世の中は機能していく。
 優司を失った俺を無視してまた朝は来る。
 なのに俺は死ぬ事を許されず優司のいない朝を、優司のいない夜を迎えて
 でもそれが、優司の望んだことなのか?
 俺のことが本当は煩わしかったのか
 優司はただ、ここで雨風を凌げれば良かっただけで
 だって、優司はいくら俺がきつく抱きしめても
 いつまでも独りだった。
「……優、――」
 三度目に呟いて、俺は体を横たえた。
 すばるのイーゼルを置いていた空間が空くとやけに広かった。
 俺は何の為にここにいて、こうして息をしていて
 これからどこへ行く予定なのか
 優司を失ってから判らなくなった。
 いい年した大人なのに自分の足下も見えなくて
 でもすばるがいるとそれが取り戻せるような気がしていた。
 すばるの明るさに照らされて自分の行き先も見えるんじゃないか、なんて。
 
 虚空に浮かんだ人の顔も
 優司なのかすばるなのか判らないのに。