BLACK(2)

 時間が淡々と進んでいくのにあわせて、仕事は処理し続けていた。
 仕事をしていた方が何も考えずに済んだ。きっと何もかもがそこそこにうまくいく。
 優司がいなくてもすばるがいなくても、俺が何を考えていてもアトリエには順調に仕事が舞い込んで俺の両親も一安心。
 坂森や高嶋たちと例の居酒屋で飲んだりもした。でもまたいつものように騒いで愚痴って、それで楽しめた。
 誰が笑おうが誰が泣こうが、独りでも大勢でも、それはその人にしか重要ではなくて
 世界は回っていく。

「パンフレットのデザインとかやったことある?」
 印刷所で色校正に口を出していた時、良くしてくれる社長さんが暫し考え込むようにしたあと徐に言った。
「いやそういう仕事が来ててね、天下の神野さんに頼むのも図々しいんだけど」
 おだてたって何も出ませんよ、と俺は勧められたお茶を啜って笑った。勿論イラストを入れるのが俺の仕事だが、デザイン関係も素人に毛が生えた程度には出来るだろう。二つ返事で承諾すると、社長さんは大きく息を吐いて安堵したようだった。
「助かるなぁ。呉服店のパンフレットで、本当申し訳ないくらい小さい仕事なんだけどね。呉服屋さんだから色使いが綺麗な人にお願いしたくて」
 社長はそう言いながら今までのパンフレットと、呉服店を経営する会社の概要などを資料として持って来た。
 場所は日本橋。遠くない。
「締め切りはいつ頃ですか」
 神野くんに合わせるよと言うので、俺は一度取材に行ってからと答えて資料を鞄に詰めた。
 どんな仕事でも良い。もっと、もっと忙しい状況に身を置きたい。
 レギュラーでイラストを描かせてもらっている雑誌が三誌、他にも細々としたデザインなどの仕事を幾つも引き受けて、たった一日でも暇が出来れば学校や、高嶋たちの所に行って手伝いをした。
 三食の飯もきちんと摂っているつもりだったけど気が付くと体重がまた減っていた。
 女性誌の編集長にそれを言うと、それは嫌味かと小突かれた。

「……さて」
 鏡の中の、目に見えて頬のこけた自分を睨みつけながら髭を剃り終えると印刷所の社長から貰った資料を再度確認して鞄に詰めた。
「あ、カメラカメラ」
 口に出して呟きながらインスタントカメラを取りに部屋の奥に戻ると、優司の絵が眼の端に止まった。
 でも、
 無視をした。

 日本橋の駅を出てタクシーに乗ること十数分。老舗を絵に描いたような呉服屋は、近代的な建物の間にひっそりと居を構えていた。
「望月呉服店、と」
 大きく開かれた入り口には恰幅の良い老婦人が腰を丸めて生地に食い入っているのが見えた。
 印刷所から連絡は行っている筈だけど、一先ず店の人に挨拶をしてから外観の写真を撮らせてもらおうと、俺もその御夫人の隣から店内を覗いた。
「いらっしゃいませ」
 店内には羽織を着けた従業員が一人、姿勢正しく立っていた。京の呉服屋を一度覗いたことがあるけど、それとは趣きも着物の柄もどことなく違う。
「どうも、緑光印刷から来た者ですが」
 パンフレットの件で、と告げると髪を結った従業員は綺麗な項を見せて頭を下げ、少々お待ち下さいと告げると店の奥を覗いた。
「はい」
 間を置かずに顔を見せた女将は長身の美人で、きりっとした容姿はどこか冷たい印象を受けた。
 「わざわざ御足労有難うございます、店内を好きなだけ御自由にご覧下さい」
 目に映える紅を引いた薄い唇が笑う。意志の強そうな、と言えば聞こえは良いのかも知れない。しかし一方的に言うと奥へと戻ってしまった後姿は俺には感じが悪いなぁと思えた。
 従業員に礼を言って、店の外へ出るとカメラを構える。
 実際にパンフレットに使う写真は改めてカメラマンさんが撮るけれど、これは俺自身の資料のようなものだ。
 シャッターを切る。
 隣のビルとの対比、年季の入った木造の柱。創立から守ってきているという看板。
 ――あれ?
 俺は看板を写真に収めてからふと違和感にとらわれてカメラを下ろした。
 望月呉服店。
 店内の反物に描かれた、和風な柄を彩る極彩色。
 なるほど、これがルーツだったんだ。
 俺は口元に笑みすら浮かぶそうなほど冷静に思い返すことが出来た。
 これがすばるの、捨てた家だ。
 何日か――否、何週間か振りに彼の事を、彼らの事を思い出した。
 でも俺にはもう関係ないのだろう、
 すばるも
 ――優司も。
 重い腕を上げてカメラを構えなおした。ファインダーの中に覗いた望月という名前はあまりに遠い。
 俺は一人でも生きていける。
 優司がいなくなってももう、約一年も俺はこうして生きている。
 体重が20kg減っても結構元気に生きていられるし、俺を呼ぶ優司の微かな声がなくても俺は一人で歩ける。
 自分の行く場所が判らなくても、自分を救ってくれる人などいなくても、何てことはない。
 世界の何かが変わるわけじゃなく、優司が生き返るわけでも、すばるがまた笑ってくれるわけじゃない。
 俺も彼らも、そんなこと望んでいないのだから。

「じゃあ版下が出来上がりましたらまた伺います」
 ビジネスライクにデザインのイメージを掴んで、俺は従業員の夫人に声を掛けると早々に店を後にしようとした。
「あ、お茶でも召し上がって行って下さい」
 二、三度浅く頭を下げた俺が踵を返し掛けた時引きとめた男の声
 ガタイの良い、唇の厚い男。
 人にへつらうような暗い目の色が、接客に向いているとは思えない、おぞましさを覚えた。
「緑光社さん?」
 不自然に哂う口元。
 そうだ、こいつはあの時もこんな風に笑った。
 視界が殆ど閉ざされて、もう絵なんて一生描けないと思うくらい世界が暗く、重い灰色に見えたあの時俺はこの口元だけを睨み付けるように見ていた。
 どうして、……こいつが此処に?
「あの、……」
 俺があまりにも男を凝視していたので、男は卑屈な表情を更に歪ませて苦笑した。
 間違いなくこいつだ。こいつの顔を忘れるはずがない。
「どうしたの、あなた。早く上がって頂いたら」
 女将が、男の後ろから男を呼んだ。
 何てことだ。
 この男がこの店の旦那だっていうのか?
「いえ、結構です。お気遣いなさらないで下さい。僕はこれで失礼しますので」
 俺は早口に捲くし立てると逃げるようにその場を後にした。本当に駆け出していたのかも知れない、タクシーにも乗らずに日本橋の駅につくまで、俺は自分がどうしていたのかすっかり覚えていない。
 すばるは関係ない。
 そう、
 すばるはあの家を捨てたんだし、すばるには関係のないことだ。
 すばるの母の夫が、すばるの父が
 優司を轢き殺した男だなんて。

*****

「本当にすみません」
 階下で輪転機の廻る音がする印刷所の一室で、俺はデザインのラフスケッチを前に社長に頭を下げていた。
「あぁ、いいよいいよ」
 苦笑して俺の肩を叩く社長は頭を上げて、と懇願するように言った。
「すいません、急にやっぱり出来ないだなんて。一旦は引き受けた仕事なのに」
 取材に行ってきた以上これは仕事なのだからと割り切って
 掴んできたイメージを紙の上に走らせることは出来た。でもそれ以上は、考えれば考えるほどあの男の笑い顔が、すばるの笑顔が、優司の血の色が目の前に浮かんでとても。
「いや、神野くんはまだ体調悪そうだから」
 家に帰って少しゆっくりしておいで、と社長は優しく俺を宥めた。
 俺なんてもう二度と使ってくれないだろう。長い間良くしてもらっていたのに、俺は大事な信用を失ってしまった。
 どんなに謝っても仕方のないことなのに、俺はまた深く、頭を下げた。

 優司がいなくなって一年。
 酒気帯び運転だから、一年も経てば世間に出てくることも出来るのか。
 慰謝料は何処に支払われているんだろう? 身寄りのない優司に。
 仕事を断ってしまったことでぽっかり空いた時間に、優司のことばかり考えていた。
 悔しくて、何度も泣いて
 涙なんて
 優司が冷たくなってしまったのを知っても、その冷たく硬い肌に触れても
 どうしたって流れてこなかったのに
 ――どうして、
 淋しいまま死んだ優司を無視して
 優司ただ一人を愛した俺を放って
 あの男はのうのうとしていられるんだ。
 俺がどんなに虚脱感に押し潰されそうになっていても世間は正常に機能している。
 あの男も幸福に暮らしているんだ。
「く……そ……ッ!」
 腹の奥から絞り出した自分の声が、いつまでたっても耳にこびりついていた。