BLUE(2)

「渉、最近飯食ってんのか?」
 坂森がウィスキーの入ったグラスを傾けながら俺の顔を覗き込んだ。
「あ、あぁ……さすがにな」
 俺はあれ以来酒も煙草も止めた。止めてくれる人がいないからだ。
『ほんの少しのお酒なら体に良いのかも知れないけど渉みたいな大酒飲みは駄目だ、煙草なんてもっての他、百害あって一利無し』
 そう言って止めてくれる人がもう、いないからだ。
「体重は?」
「止まったよ」
 三ヶ月で十キロ以上のウェイトが、俺の体から奪われた。日増しにやつれていく俺の姿に、俺が優司の後を追おうとしているように周囲には見えたらしい。
「仕事は」
 坂森の言葉に俺を口を噤んだ。
「もう依頼来なくなるぞ」
 俺は、ちょっとしたイラストを描く仕事をしていた。仕事を選ばなければそれだけでアトリエを借りつつ生活できる程度には成功していた。しかし優司を失って、俺の目に映る物は何の輝きも持たなくなってしまった。そんな状態で仕事など出来ない。
「いい加減親の世話に頼ってばかりもいられないだろう」
 俺の中の全てが優司だった。
 優司がもういない人なら、俺の中には何もありはしないのだ。
「渉」
 軽く咎めるような口調に俺は苦笑を浮かべて頷いた。
「大丈夫、……判ってるよ」
 イベントプランナーの仕事をしている坂森の仕事の都合で俺達は店の席を空けた。二時間の間俺はずっと烏龍茶を飲んでいた。
「また連絡するから。
 今度は高嶋も呼んで、久し振りに三人で呑もうぜ」
 坂森や高嶋は俺のデザイン学校時代の友人で、俺と優司のことをよく知っていた。優司を失った俺を支えてくれたのは他でもない彼らだった。
「じゃあ俺帰るから。……渉、ちゃんと寝ろよ」
 こいつらがいなかったら俺は、優司のいないこの世界で息をする方法すら忘れていたかも知れない。
 心配そうな目を向ける坂森に向かって俺は低く呟き、笑って見せた。
「坂森。もうこの人以外愛せないって思うのは、ドラマの中だけじゃないんだな」
 坂森は黙って、俺の頭を小突くように撫でた。

 坂森に言われなくても判っていた。
 このまま親に食わせてもらってずるずると生きて行くことは出来ない。折角自分が持って恵まれた絵を描くという特技を活かして、或いは只の会社員に成るのでも、アルバイトをするのでも良い、とにかく自分の力で生きていけるようにならないと、優司に
 優司に、笑われる。
 あの桃色の唇を歪めて、
 あの栗色の瞳を細めて少し誇らしげに顎を上げて
『渉、格好悪ィなぁ』と。
 俺は時間だけを持て余した翌日、電車を乗り継いで以前通っていたデザイン学校に足を向けた。俺の個性を押し殺して事務的に処理するような仕事なら出来るだろうから、しなくては。
 後輩達のやる気とセンスに刺激を受けて、自分の初心を思い出したい気持ちがあった。この学校に通ってる頃、俺は優司に出会う前で、絵を描くことがただ楽しいと思っていた。課題を出されることすら嬉しいと感じていた。
「あ……そーですか……」
 学校の事務室を訪問すると、恩師の高田先生は帰宅した後だった。顔見知りの事務員さんに後輩の作品を覗き見だけさせて貰えないかと尋ねると事務員さんは講師の了解を取って、承諾してくれた。
「神谷渉くんでしょう」
 案内というより立ち合い人としてついて来てくれた講師の先生は俺のことを知っていて、俺が過去にした仕事について雑談を交わしながら教室を幾つか回った。しかし昔ほど俺の五感も六感も刺激を受けることが出来ず、時間も良い時間だったのでそろそろ帰ろうかと最後の教室を出ようとした。
「先生すいませんっ、持ってきました!」
 そこへ息を切らして駆け込んで来たのは俺より僅かに背の低い青年だった。
「あ……」
 来客中でしたか、とぎこちない口調で呟いて、彼は黙って、恐らく今日が提出日だったのであろう課題を大きなトートバックから取り出した。
「望月、この人誰だと思う?」
 先生の言葉に彼は俺を振り向いた。
 視線が合う。
「え、ココの卒業生ですか?」
 まだアクリル絵の具が付着している骨張った指で彼は頭を掻いた。
 ――嘘だ。
「聞いたら、お前が飛び上がりそうな人だぞ」
 意味深な笑みを俺と彼に交互に向ける先生の顔が、俺の視界で滲んで消えた。
 ……嘘だ、嘘だ。
「えっ、もしかして神谷さんですか?!」
 ――だってもう死んでしまった筈じゃないか、優司は。
「うわーッ、本物?! すっげぇ尊敬してるんですよ、俺」
 彼はティシャツの胸元で掌を拭ってから俺に握手を求めて近付いて来た。
 優司と同じ髪の色、
 優司と同じ瞳の色
 優司と同じ声、優司と同じ体
 優司と同じ……
 三ヶ月前に、死んだ筈の。
「――誰だ、お前………?」