knocking on your door・Ⅱ(8)

 数日後、ダイレクトメールしか届かない斉丸の家のポストに水野透――俺宛の葉書が届いた。
 黒く縁取られた葉書には、知らない女の訃報が記されていた。
「誰よそのオンナ」
 こういうことを平気で聞けちゃう斉丸は、本当にすごいと思う。
 胸のど真ん中を疲れてときめいてしまうくらい。
 普通、察するものじゃないの?
「俺の血の繋がった父親の奥さんだよ、……多分」
 俺が葉書に視線を落としながら答えると、斉丸は興味もないという風に、へぇ、とだけ答えた。
 牛乳を飲みながらテレビの前に陣取って、忙しなくチャンネルを回している。
 俺はそっと、簡素な葉書の表面を指先で撫でてみた。
 平坦に印刷された文字の羅列。そこには何の感情も、何の思い入れも、思い出も映されていないけど。
 あの人は、愛した妻の最期に立ち会えただろうか。
 俺の母親と俺のことで苦しみながら、裏切ってしまった妻へ償わなければと言ったあの人は、死んでいった女に何ができたんだろうか。
 今、もう一度聞いてみたい。
 あなたにとって愛とは何ですか、と。
 俺にはいったい、何ができるんだろう。
 今どこにいるのか、生きているのかさえ判らない母親に、これきり会うこともないだろう本当の父親に、今はもういないその細君に、死んでしまった妹に、
 そして、斉丸に。
 俺はいったい何をしてあげられるんだろう。
「行くのか」
 斉丸はコンビニで買ってきた小さいドーナツを一口で頬張りながら言った。
 視線はまだテレビに向けたまま。
「……え?」
 気がつくと、俺の頬は濡れていた。
 人の死。
 俺が生まれる前から徐々に生を蝕まれ続けていた女。
 自分の病から逃げるように他の女を作った夫に申し訳ありませんでしたと頭を下げた女。
 その女の死。
 俺は、指先を宛がった葉書から何か、途方もない衝動が移ってくるような気がして慌てて葉書を手から落とした。
「通夜とか、葬式とか。……行くのか?」
 ぐい、とコップの中の牛乳を飲み干して斉丸は手にしていたリモコンをようやく置いた。
「ああ、……」
 どうしようかな、と呟きながら、足元に落としてしまった葉書を拾い上げる。
 あの後、女の病について調べた。
 長い年月をかけて命を削り取られていくその病。
 最期にはミイラのような醜態を晒して、呼吸だけが静かに消えていく。
 落ち窪んだ目、乾いた肌。ほとんどが抜け落ちた髪の毛を愛しげに撫でながら、死んでゆく妻に語りかける男の姿が目の前に浮かんだ。まるで実際に見て来たかのように、鮮明に。
「――っ!」
 思わず目を硬く閉じる。
 拾い上げた葉書が、手の中で潰れた。
 女は夫に愛されていることを知って死んでいっただろうか?
「一人で行けねぇんなら、ついてってやろうか?」
 斉丸は肩越しに俺を振り返って言った。
 俺はその声に促されるようにしてゆっくりと視界を開けて、斉丸を見た。
 斉丸の瞳が俺を見つめている。
 ようやく、深く呼吸をつくことができた。
「遠慮しとく。斉丸が一緒にいたら目立っちゃうじゃんか」
 小さくなってくれるんなら連れてってやるよ、と言うと、バカか、と斉丸は笑って視線をテレビに戻してしまった。
 俺は両手を目の前に伸ばす。
 斉丸の背中には届かない。
 二歩、三歩と前に進んで、ようやく斉丸に抱きつく。
 斉丸は何だよ、とも言わずにテレビを眺めたままだ。
 斉丸の胸に腕を回して、力いっぱい抱きしめても斉丸は何も言わない。
「斉丸」
 斉丸の返事はない。
 でも、斉丸の耳にもテレビの騒がしい歓声は届いていないはずだ。
 全神経で俺を受け止めてくれているに違いない。
 独りよがりでいい。
 斉丸は今俺を愛してくれていると、信じてる。
 だから
「俺と一緒に、死んでくれる?」
「いつだ」
 斉丸は微動だにしない。
 俺は、まるで祈るように斉丸の背中に額を押し当てて答えた。
「今」
 永遠なんてどこにもない。
 幸せはいつまでも続かない。
 だからこのまま世界を閉じてしまえばいい。閉じてしまいたい。
「嫌だね、断る」
 斉丸を抱く俺の腕に、知らず力が篭った。
「一緒に死んで欲しい」
 名前すら覚えていない俺の妹。
 俺が犯すと、彼女は猿のように甲高い声をあげて悦んだ。
 彼女は幸せだっただろうか?
 彼女の命の糸が切れた、その瞬間、彼女は不幸という感覚を麻痺させたまま安らかに死ねただろうか。
「俺と一緒に死んで欲しい」
 お願いだよ、と続けた俺の声は掠れた吐息にしかならなかった。
 斉丸は今、俺を愛してくれていると信じる。
 斉丸は今、俺と一緒にいて幸せだと信じる。
 だとしたら俺が殺してやる。
 斉丸の永遠の幸せのために。
 俺のために。
「今じゃないなら、そうしてやってもいい」
 斉丸は相変わらず、今日の夕飯のメニューをリクエストするのと変わらない声で言う。
「今じゃないなら、いつ?」
 その頃まで、俺は、斉丸は、幸せでいられるだろうか。
「俺かアンタが死ぬ時」
 テレビの中で、どっと笑い声が起こった。
 それは遙か遠い国の出来事のように聞こえた。
 実際、テレビを通してしまえば大陸の戦争も下らないコントも次元は同じだ。
「……どういう意味?」
 俺が今、斉丸を殺してしまったらそれは、今になるというのに。
 俺の言っていることを、斉丸が判らないとは思えない。
「言っとくけど、俺は老衰以外で死ぬ気はねぇんだよなぁ」
 斉丸は戸惑った俺の声に機嫌を良くしたように声のトーンを上げた。
「それにあんた、この間言ってただろ? これからもっと幸せになれる、って」
 ああ、そうだ。
 そうだけど。
 そうだけど。
 じゃあ、俺はいつまで怯えていたらいい?
 いつか斉丸の前ですら安心して笑えなくなってしまったらと、怖くて仕方がないのに。
 幸せを感じるほど、悲しくなるのに。
「アンタにとって幸せって何だ」
 さぁな、はナシだぜと言って、斉丸は暢気に笑った。
「俺にとって幸せ、……とは」
 斉丸の硬い筋肉の上を更にきつく抱きしめる。
 この力が斉丸の骨に、内臓に、跡を残すほど、強く。
「斉丸に愛されること。斉丸を愛することを許されていること」
 斉丸が存在すること。
 斉丸自身が俺の幸せ、そのものだ。
「じゃあいいじゃねぇか」
 斉丸は、俺に締め上げられていることなどお構いもしないように、煙草を銜えた。
「幸せなのに何で死ぬことがあるんだ?」
「斉丸は? 幸せ?」
 斉丸にとって、幸せって何?
 どうして、俺の不安を判ってくれないの。
「……さぁな」
 斉丸はゆっくりと、煙草を吹かす。
 斉丸が大きく紫煙を吸い込むと、俺の腕は否応なしに緩められた。
 まるで斉丸に抱きついていることを払いのけられるようで怖くて、俺は爪を立てて斉丸にしがみついた。
「さぁな、はナシ」
 斉丸が灰皿に煙草を弾いた。
 灰が落ちる微かな音まで、耳を打つように大きく聞こえた。
「何で死にてぇんだ」
 斉丸の声が急に低くなった。
 怒っているような声だ。
 俺のことをしつこい、と思ってるんだろう。
「幸せだからだよ」
 俺は斉丸の背中に預けた首を上げて、斉丸の項に唇を押し付けた。
「判らねぇな」
 ねっとりと舌を這わせても、斉丸は何の反応も示さない。
「幸せは永遠に続かない。斉丸は今幸せ? それなら、俺と一緒に死のう」
 唇を耳朶に滑らせて、囁く。
「全然判んねぇよ」
 斉丸の声が、唸るように低くなった。
 まるで、獣だ。
「いつか斉丸は俺の幸せではなくなるよ。俺は、このままでいたい。ずっと」
 斉丸が、灰皿をひっくり返しそうな勢いで煙草を揉み消した。
 俺が力いっぱい抱きしめている腕を振り払って、反対に俺の肩を掴む。
 乱暴に引きずり倒されて、床に押し付けられた。
 したたかに打ち付けた衝撃に思わず閉じた目を開けると、斉丸の顔がすぐ目の前に迫っていた。
 思わず、息が詰まる。
「アンタが死ぬことは俺が許さねぇ」
 タバコ臭い斉丸の息が、暴力的に怒鳴る。
「アンタの幸せが俺なら、俺がアンタを幸せにしてやるから! いいからアンタはいつもみてぇにへらへら笑ってろ。くだらねぇこと考えてんじゃねぇよ!」
 そんな大きな声で言わなくても良いんじゃないかってくらいに割れた声で怒鳴る。
 俺の耳に入りきらない。勿体無いよ。
「……斉丸は、幸せ?」
 俺が思わず笑いながら尋ねると、斉丸は俺の肩から手を離して座りなおした。
 胡坐をかいて、またテレビに顔を向けてしまう。
「今は不幸せだ」
 牛乳もういっぱい飲む? と尋ねると、斉丸は黙ってコップを差し出す。
「どうして?」
「あんたがつまんねぇこと言うからだ」
 吐き捨てるように言って、斉丸は灰皿に揉み消した煙草を拾い上げた。折れ曲がった煙草を指先で扱いて伸ばし、もう一度火をつける。
 ビンボー臭いな、やめてよ、と言うと、
「ベッド買うんだろ」
 と、斉丸は当然のことのように答えた。
 表情は相変わらず、ぶすくれているけど。
「斉丸、……俺は斉丸のことを信じていいの? 今のは、優しさ?」
 意地悪く尋ねる。
 信頼という独りよがり。恋愛という勘違い。優しさという嘘。
 それが幸せだって、今初めて思った。
「さぁな」
 紫煙を吐きながら答えた斉丸も、俺から顔を背けたまま少し、呆れたように笑っていたように感じた。