knocking on your door・Ⅲ(3)
心っていうものがあったとしたら、そこに、ポツリ、と雫が落ちる。
それは黒い染みとなって、徐々に大きく広がり、俺のその心ってヤツをずっしりと重くさせる。
見たこともねぇくらいデカい怪物の影みたいに、俺の心ってのを支配していくそれ。
そう、こんなことが前にも一度あったはずだ。
いつだっただろう?
「あら織野田くん、こんにちは」
長い髪をゆるく束ねた瑞貴――俺がほとんど毎日通っている喫茶店の店主である女――が、にっこりと笑った。
「いま透くん、お買い物に出ちゃってるのよ。すぐ戻ってくると思うから、少し待っていて」
俺がいつも座るカウンターの席に水を差し出して、女は少し眉尻を下げた。
俺はその透き通るような笑顔を見ないようにしながら席について、今日は何を食うかと考えていた。
「今日は少し時間が早いんじゃない? 私もうっかり透くんにお買い物お願いしちゃったわ。ごめんなさいね」
女が眉をはの字にして見せたのは、ごめんなさいってコトだったらしい。
どーいう意味だそりゃ。
「コーヒーを淹れてあげてもいいんだけど、きっとあとで透くんに怒られちゃうからお水で我慢してね」
申し訳なさそうにして見せた割には好き勝手なことを言ってる女に、俺は返事をする代わりにグラスの水を飲んだ。
ミズノに言われるまでもなく俺は、女の前だと無口になるようだ。
それもこの女は特に、苦手だ。
嫌いだって意味じゃなく、この女は俺とミズノが「仲良し」だと思ってるらしく、俺とミズノが憎まれ口を叩きあっていようがなんだろうがニコニコと微笑んでいる。そこが苦手だ。
「そろそろ梅雨だから、ビデオ屋さんも忙しいんじゃない?」
俺がフレンチトーストとドリアを注文すると、てきぱきと準備を始めながら女は言った。
ここのカウンターは狭い。
小柄な女と、細っこいミズノだから二人も入れるんだ。
これが俺なら、たった一人で満員御礼ってトコだな。
入りたくもねぇが。
「ああ、……そうスね」
言われてみりゃ、最近客数は増えてきてる。
でも今日は平日だし、忙しいってほどでもねぇ。
「あ、そうそう織野田くん。ここのお店、八月いっぱいお休みしちゃうの」
へぇ。
口に出さずに視線を上げる。
「透くんにも今日言ったばっかりなんだけど、ちょっと実家の方へ帰ろうと思って」
一ヶ月も?
この女にも何かいわくつきの過去がありそうだよな。何となく辛気くせぇ。
「実家ってどこなんスか」
世間話のセオリーに沿った台詞が口を突いて出てきたことに俺も驚いたが、女の方でも少し驚いたようだった。
「九州のほうなの」
少し間を置いてから、女は笑った。
九州から出てきた、あまり丈夫そうでもない女が一人でこんな喫茶店を開いてるなんて、ますます訳ありくせぇ。まぁ暇潰しの妄想だけどな。
「織野田くん、御実家は?」
ゴジッカ、と言われて俺は一瞬何のことか判らなかった。
ドリアに入れるスパイスか何かのことかと思ったくらいだ。
「ああ、……実家は、新潟です」
今年は帰ってみようかな、と何度も考えている。
早速今日当たりワカに話してみようか。
「そう」
女が続けて何か言おうとした時、扉の鈴を鳴らしてミズノが帰ってきた。
「あ! 斉丸」
何が「あ!」だ。何が。ガキかっつぅの。
「いらっしゃいませ」
野菜が入った袋をぶら提げて俺の掛けている席まで歩み寄ってくると、深々と頭を下げて笑う。
俺はもちろん無視。
「透くん、早くコーヒーを淹れて差し上げて。織野田くんずっと待ってらしたのよ。透くんの淹れたコーヒーじゃないと飲まないって」
「そんなこと言ってねぇ」
俺がグラスの中の水を飲み干して言うと、女とミズノは二人そろって大爆笑した。
……面白くねぇな。
「スペシャルなやつを淹れてあげよう」
ミズノは腕まくりをする振りをしながら言った。
何でもいいから早くしてくれ。
「今ね、織野田くんの御実家の話をしていたのよ」
和気藹々としたカウンターの中から、いい香りがしてきた。
何かもっと早くできるものにすれば良かったかな。
「へぇ! 俺も聞きたい」
カップを暖めながら身を乗り出すミズノ。
「別にどってことねぇよ。新潟の田舎だって話だ」
ふーん、とミズノはしきりに肯く。
ひとしきり肯いたあとでミズノが思い出したように短い声を上げた。
「あのね、斉丸。ここ八月中お休みになるんだって、瑞貴さんが……」
「もう聞いた」
ミズノに最後まで言わせずに口を挟むと、ミズノは女を振り向いて、あ、そう、と呟いた。
「もちろん織野田くんと透くんの負担にならないように、七月中にボーナスを出しますよ」
そういった女が、先にフレンチトーストを出してくれた。ありがてぇ。
しかし、コーヒーはまだか?
「ついでに、いつになるかは判らねぇけど俺も今年は実家に顔出すぞ」
アンタは留守番だ、と先手を打って指差すと、ミズノはきょとんとした。
してから、
「えぇっ連れてってくれないの?」
連れて行ってもらうのが当然、というように抗議する。
何考えてんだ、このヤロウ。
「せっかく八月いっぱいお休みなんだよ? どっか行こうよ!」
「一人で行け」
男二人連れ立って旅行に行って、何が楽しいんだ。そう付け足すと、ミズノはしゅんとした。
えーと、こいつの年齢はいくつだったっけかな?
しばらく黙ってコーヒーを作り続けていたミズノは、誰に言うでもなくポツリと
「……実家かぁ」
と呟いた。
こいつにとって実家ってのは、どんな意味を持った場所なんだろう。
俺にとっては?
「――……」
俺は、心の表面を覆っていく染みを思い出した。
昔、負った怪物の影。
あの時、正体はおふくろの涙だった。
それまでは親を親とも思ってなかったけど、あの時だけは酷く後悔した。
親だって一人の人間じゃねぇか。
そんなことに気付いた途端、俺の心の染みはどす黒く広がっていった。
しかし、俺はそれから逃げるようにして東京へと出てきた。
必死になって口実を作って。
どんな口実だったっけか?
親を必死に説き伏せた俺の熱弁を思い出しかけた時、ミズノ特性のウインナコーヒーが出てきた。