帰り道(1)

 恋愛関係なんて奇跡だ、と木田は言った。
 奇跡っていうのは新辞林に因れば「常識では理解できないような出来事」なのだそうだ。
 自分が好きになった相手が、同じように自分を好きであることなど「常識では理解できないような出来事」だということだ。
 と、指摘したら木田に嫌な顔をされた。揚げ足取りだと言いたいのかも知れない。嫌な顔をされた後で、そっぽを向かれた。言っても仕方がないと思ったんだろう。
 自分が見つめたいと思う相手が、同じように自分を見つめたいと思っているとは限らない。
 ……それは当たり前か。
 自分が、相手から目を離せないと思っても相手は、自分が傍にいるだけで幸福感や安心感を感じるかも知れない。傍にいれば見詰めていることができる。見つめられることを厭わなければ傍にいてもらうことができる。つまりそこが二人の妥協点……ということになるのだろうか。
 妥協点というとマイナスなイメージに捉えがちだけれど、互いに歩み寄るということは相手を理解しようとすることだし、相手を理解すればより多くの幸福を感じることができる機会が増えるこということだ。
 新辞林のページを繰って妥協、を引く。
 対立する両者が譲り合って、解決をつけること。
 対立。互いに反対の立場に立つこと。
 ……別に木田と対立しているわけではないから、やっぱり妥協というと違う意味になってしまうのだろうか。
 それにしても来賓の祝辞が長い。
 新辞林のページを更に後ろへと捲る。
 恋愛。男女が恋い慕うこと。また、その感情。
 別に恋愛が男女の仲でしか成り立たないものである必要はない。でも子作りという霊長類ヒト科に課せられた使命が男女間によってのみしか可能でない限り、そしてセックスが恋愛の延長線上にあることが倫理的である限り、そう記すしかないんだろう。
 同性愛。同性の者を性的愛情の対象とすること。
 性的愛情――は、ないか。性的。性欲に関するさま。愛情。異性を恋しく思う心。
 ……とうとう国語辞典にありがちなループに嵌った。
「何読んでんの」
 隣の桃井が手許を覗き込んできた。さっきまで寝ていたと思ったのに、いつの間にか起きていた。
「新辞林」
 呆気に取られた桃井と目が遭う。その時ようやく長い長い祝辞が終わって、礼、の号令が掛かった。慌てて頭を下げる。膝に額を近付けながら、そっと前方の木田を盗み見た。眼鏡の奥の長い睫を伏せ気味にして、真剣な表情だった。
 祝辞が終わったかと思うと電報が読み上げられ、既に他の高校へ転任した一年の時の担任の名前が読み上げられると周囲が沸いた。桃井の眠気も何処かへ吹き飛んだようで、反対隣の矢口と思い出話をしては手を叩いて爆笑している。
 さすがに高校生最後の式典ともなるとどれだけ勝手なことをした所で注意は受けない。教師が本音の所では生徒のことをどうでもいいと思っている証拠だろう。社会に出た時に恥ずかしいのはお前達なんだぞという説教が本当ならば、今日こそ父兄の前で大声を張り上げて注意すべきだ。どうせ、うるさいガキ達が自分達の手を煩わせるのも今日が最後だと思って清々してるんだろう。
 在校生の送辞。卒業生の答辞。校歌斉唱。どれも上っ面ばかりの形式ばった段取りの中で、三年生の大半が私語を増やすばかりで誰一人感動の涙に咽ぶようなことがなかった。今日の卒業式が、二年後の成人式となって、町長に訴えられたりするようなことになるのだ。
「打ち上げ何処行く?」
 桃井が、後ろから回ってきた伝言を振ってきた。
「白木?つぼっぱ?」
 今日は駅前のしょぼい繁華街に高校生が溢れ返る筈だ。制服を着た奴が混じっていても、飲み屋のチェーン店では見て見ぬ振りをするだろう。今日は目出度い日だからとか何とか言って。
「……俺用事あるからいーわ」
 膝の上の新辞林を閉じる。起立、の号令が掛かった。卒業生、退場。
 ようやく長い高校生生活が終わった。


 木田と出会ったのは高校に入学してから半年後のことだった。
 正確を期すべきならばその時は出会ったとは言えないのかも知れない。俺が木田を知っただけだ。それ以前に見たことはあったのかも知れない。春の内に球技大会はあった訳だし、全校生徒の顔などざっと見くらいはしていたのかも知れない。ただ、可愛い女の子の顔を一つ二つ記憶に留めるくらいで俺の高校生生活はそこに注ぐものだと思っていただけで。
 木田の顔くらいは見たことがあったんだろう。同じ中学から来た奴らが複数のクラスに点々としていた所為で色んな教室を渡り歩く内に見た可能性だってある。
 だから俺は木田に対して一目惚れしたとは思っていない。
 ただ、そんな木田を意識するようになったのはクラスで一番可愛いと目を付けていた女の子が図書室に行くと言うので付いて行った時のことだった。放課後の図書室。俺は中学校の時と総合して考えても、それまで図書室に入り浸った時間なんて10分にも満たないような文盲だったから図書室なんて人気のない格好のデートスポットなんだろうと思っていた。誰もいない夕暮れの図書室で、書架のハードカバーを眺める彼女の横顔を意図的に見つめ、自分が相手に好意を持っていることを意識させればしめたものだと思っていた。
 下心満載の俺が図書室の扉を開くと、カーテンが開かられた窓からは良い具合に夕日の赤いライトが差し込んでいて、演出は思ったとおり、ばっちりだった。
 レディファーストを気取って彼女の前に立ち、扉を開いた俺の目にはそのばっちりな演出の中で長い睫を落とし小説を読んでいる木田の姿が飛び込んできた。
 声をなくした俺の視界の中で木田が視線を上げる。小説を閉じる、その貧弱な指。
「返却?」
 木田はその容姿に相応しい怜悧な声で俺の胸を射抜いた。