帰り道(2)

 それから、俺は一年半をかけて木田を口説き落とした。あの時図書室の扉を開いた瞬間から、自分が追いかけていた女の子たちの名前も顔もすっかり忘れてしまった。
 俺が今までの――たかだか十数年の人生の中で他に例がないくらい捨て身の告白を繰り返し繰り返し行う間で、木田は殆ど喜怒哀楽の中で怒、の感情しか見せてはくれなかった。最初は訝しみ、次に嫌悪され、諦めて怒って、しまいには呆れてしまっていた。
 それでも三年に進級する頃ようやく俺の押しに折れてくれた木田が、しょうがなく俺と付き合ってくれたとは思えない。
 木田は滅多に表情を変えないし、他のクラスメートよりも、下手すると教師達よりも大人びているところがあって冷や冷やするほど正直で、俺のことを適当にあしらうような奴じゃなかった。
 木田が真剣に考えて、悩んで出した答えを疑うことなんてする筈がないし、何よりも俺の気持ちに応えるようになった木田は誰の眼から見ても変わった。
 俺が一緒に何処かへ行こうと言えば呆れたようなことを言いながらも喜んでいるように見えたし、俺が昔付き合った女の子の話をすれば面白くなさそうな顔をした。俺に翻弄されている様子はクラスメートに安心感を持たせたようだった。
「お前と居ると理屈に合わないことばかり口走る」
 ある時頭を抱えるようにして木田が言ったことがあった。しかし人間の感情なんて元々理屈にそぐわない物だし、それで良い。でもそれが木田にとっては居心地が悪いのだろうか。俺がそう訊こうとした瞬間木田は更に身を縮めて言葉を繋げた。
「――だけど、傍に居ろ」
 それが木田の初めての、俺に対する告白だった。
 木田はキスをすると嫌がったし、舌を入れれば噛み付いてくるような手強い、どうしようもなく可愛い恋人だった。可愛いと言えば直ぐに帰ろうとしたけど、翌日になればまた俺の家にやって来た。またキスをしようとすれば嫌がって、でも舌を入れても身を強張らせて、耐えた。
 俺は木田が過度なスキンシップを拒んでも傍に居るし、我慢することはないと木田に告げたことがあったけど、木田はその時初めて俺を殴った。木田は今まで人を殴ったことなどないと言った。でもしっかりと握られた拳は俺の右目の周りに青タンを作って、あぁ俺は女の子と付き合ってるわけじゃないんだなぁと思い知らされた。
「三宅」
 校庭に立って、校舎を仰ぐと俺の高校生活が走馬灯のように駆け巡った。でも思えばその三年間の半分は木田に振られ続けていたんだった。俺があからさまに木田にばっかり固執している所為で女の子達にもてることもなく、むしろ女の子達とは昔に比べて仲良く接した高校生活だった。女の子達はただ俺を面白がっていたんだろうけど。
「三宅」
 嫌がる木田を宥めたり賺したり怒らせたり殴られたりしながら、教室でキスをしたことも今となっては懐かしい。もうあんな風にじゃれあうこともできなくなる。
 もし、俺が入学して直ぐに木田に惚れ込んでいればあと半年はこの校舎内でエッチすることだって可能だったかも知れない。俺の部屋でエッチすることすら今やっと、という感じなのに……あと半年あっても校舎内ではやっぱり無理だったかも知れない。
 木田はそもそも考えが堅いし、頑固なのだ。嫌と言ったら嫌だし、三回訊いて三回とも絶対に嫌だと即答するような事はその後何度訊いても駄目だ。切り札がないわけではないけど、貴重な切り札はそう何度も使えない。
「……帰るからな」
 じゃあな、という冷徹な声が背中から俺の躰を一刺しした。慌てて振り返ると、珍しくブレザーのジャケットを着崩している木田が背を向けようとしている瞬間だった。手には鞄と、卒業証書しかない。全部学校に捨てていこうという俺と違って、木田はきちんと前もって私物を少しづつ家に持ち帰っていたのだ。
「ごめん、帰る帰る」
 俺が足元の大量の荷物を抱え上げると、木田が肩越しに俺を一瞥した。その眼が、赤い。
「……泣いた?」
 その赤さは、俺でも数回しか見たことがない。多分木田の幼馴染や家族でもない限り、俺以上に木田の泣いた姿を見たことがある人間はいない筈だ。……と言うかその数回は俺が泣かせてしまったのだが。
「煩い」
 木田が顔を背ける。
 その顔を追うでもなく、ただ隣に並ぶ。まだ校舎に残っている在校生達が俺と木田の姿を見てベランダから手を振った。木田が困惑したようにそれを見上げる。俺は荷物を片手に纏めて、左手を振った。
「木田さ、……もしかしてボタン総取り」
 木田がブレザーを着崩すことなど有り得る筈がないと見直せば、その上着のボタンは左右の袖に至るまで全てなくなっていた。ネクタイもないが、その代わりにワイシャツは第一ボタンまできっちり閉められていた。
「俺の分は?」
 小さな音で鼻を啜っている木田に小さい声で尋ねると、木田が笑ったような気がした。
「ボタンなんて要るのか」
 鼻声。そりゃ欲しいよ、とおどけて答えて見せるけど、内心半分くらいは本気が混じっている、そんな俺の気持ちを見透かしたように木田が俺の顔をちらりと振り向いた。
「――あぁ、……まぁ俺はワイシャツのボタン全部貰うけど」
 照れ隠しのつもりで言葉を重ねると、木田が今度こそ吹き出して笑った。……木田が笑ってほっとした。言ってしまってから、自分の中にやらしい気持ちがあって言ったことだということに気付いたからだ。
 広い校庭を渡り切って、校門を潜る。
 木田と一緒にこの石門を通り過ぎるのはもう数え切れないくらいだ。こうして落ち着いて一緒に歩く事は、今となっては当然のようになっているけど木田に追い縋るようにして追いかけたことも何度もあったし、木田にくどくどと説教染みた話をされながら通ったこともあった。校門を出て、左手にある書店に、木田は三日に一回の頻度で通った。その度に文芸書をチェックし、参考書を買い、俺は木田の後ろをついて歩くだけだった。偶に俺が参考書を買おうとすると、木田は俺が見せてやる、と言うのだった。つまり一緒に勉強をしようという誘いだったのだが、木田と俺とでは雲泥の差と言うほど頭の出来が違う。結局は俺は木田に勉強を見てもらう形でテスト前は木田に頭が上がらなかった。
 でもそのお陰でぎりぎりの結果で入学し、進級してきた俺の成績が上がり、その度に木田が嬉しそうにしてくれた。
 書店とは反対側に行ったところにあるコンビニでコンドームを買おうとした俺を、木田が怒り出したこともあった。学校の前で買うことがいけないのかと思っていたら、俺が女の子とセックスをすると思って怒ったらしかった。妙な所で物を知らない木田に男同士では妊娠の心配はないが病気が、と説明をすると木田は言葉を失い、今度は真っ赤になって帰って行ってしまった。
 コンビニを過ぎた場所にあるバス停からバスに乗ると、木田の家に帰ることができる。
 木田がそのバス停に向かわないで、書店の裏の道をずっと行ったところにある俺の家に足を向けるようになったのはいつからだったか、正確に思い出せないのが悔しい。多分木田は覚えてるんだろう。でも訊いても教えてくれない。
 立体交差になっている道路の下を潜って、駅前の空き地を通り抜けて、流行らない商店を覗いてから俺の家に帰るまで、俺と木田は毎日他愛のない話をした。最初の内こそ会話の内容が噛み合わないことも多々あったけど、俺は木田の読んだ小説をとにかく字面を追うだけでも必死に読んで感想を話したし、木田は俺の買ったCDを聴いて好きな曲を教えてくれた。一緒に口ずさんで帰ったこともあった。
 木田はカラオケになんか行かなかったけど、音感が良いし洋楽の歌詞も直ぐに覚えて、発音が良かった。俺は木田の声が好きで、キスをしたくなったけどキスをしたらその歌が途切れてしまうので止めた。というか、帰り道の途中でキスをなんかしたら直ぐに殴られていただろう。
「……一緒に帰ることもなくなるんだな」
 木田の足が止まった。
 振り返ると、空き地の砂利を見つめながら唇を堅く結んでいる。
 うん、と答えた俺の声が声にならない。木田が俺のことを好きになってくれているのを俺は知っている。そんなことでいちいち驚きはしないほど、木田が俺の気持ちに応えてくれているのを知っている。それでも、俺が感じている感傷と同じものを木田も抱えていて、そのことに声を震わせていることが何よりも嬉しいし、胸に詰まる。
「木田」
 声を絞り出して、荷物を下ろす。
「抱きしめても良い?」
 左手を、木田の肩に伸ばした。その肩が幾ら細いと言っても、女の子とそれのように華奢じゃない。それでも俺は木田の体を腕の中に抱きしめることが好きで、木田も俺の腕の中ではいつもじっとしていた。
 俺と木田の間には奇跡がある。例えば両親とか、教師とか、周りの友達とかが、常識では考えられないと俺たちを非難することがあったとしても別に構わない。俺が好きな木田が、俺のことを好きでいてくれることなんて奇跡だ。
 奇跡は、新辞林には載っていなかったけど多分何よりも強い。
 大学が違ったくらいで俺と木田がどうにかなるなんてことは考えられない。
 また一緒に、高校と俺の家の間の距離以上の道を長い間ずっと歩いていけるに違いない。
「駄目だ」
 掌で乱暴に目頭を拭った木田がきっぱりと答えた。
 伸ばした手を慌てて引っ込める。それを呆れた眼で木田が一瞥し、止めた足をさっさと前に向けて踏み出し始めた。
「木田、待ってって」
 下ろした荷物を抱え上げて後を追う。振り向いた木田はもう笑っている。