甘いくちびる(1)

 バレンタインに何の感慨もない。
 それでも、ワケの判らなかった小学生の時なら友達との競争意識の問題で、或いは純粋な人気順を気にして、チョコレートの有無を気にしたりしていたけど、中学生になって、初恋を済ませてからはチョコレートが貰えるか貰えないかを気にすることを無意識に演じていた。
 初恋の相手は教育実習の若い大学生だった。男で音楽教師だというのが中学生のガキどもを面白がらせ、俺も皆に混じって揶揄していたものの、ピアノの鍵盤を弾くその細い指先に俺は惹き付けられた。
 夢精も精通も済ませて、オナニーだってそれなりに判っていた俺の初恋は多分遅かったんだと思う。
 正直言って何を持って初恋だというのかなんか判らない。夢精した時見てた夢なんて覚えてないし、初めてオナニーした時は友達に借りたエロ本だったし、同級生の渡辺は好きだったけど、俺に優しくしてくれた保険の先生だって好きだった。
 でも教育実習のその先生には初めて、キスしてみたいと思った。
 セックスへの興味とか、仲良くしていたいという情や安心感という居心地の良さじゃなくて、胸が苦しくなるような感情。その人の下半身じゃなくて唇に触れてみたいと思う興味。手を握りたくなる衝動。
 俺は教育実習の期間が終わる六月のある日の午後、初めて恋というものを知ったんだ。

 だから、というわけではないけど俺は大概初夏にサカリがついて恋人を作ることが多くなっていた。
 とは言えテンバというのか何なのか判らないけどその手の人の集まる公園で知り合ったおにーさんとか、出会い系サイトの掲示板で知り合ったリーマンとか、そんなのが夏の間汗だくになっていくら交尾してみたところで、冬を迎える前にあっという間に会わなくなってしまう。
 それでも俺って恋人かななんて訊いてみると恋人だよとか答えてくれるから、俺は年に一度の発情期の時だけお互いに都合のいい恋人を調達するように出来てるんだと思っていた。
 多分、涼しくなり始めて我に返ったおにーさんたちは冬の恋人達シーズンに向けてもっと、俺みたいに若いのじゃなくて話の通じるタイプの「恋人」を探しに行くんだろうな。
 そんなことを思いながら俺は熱の収まった躰をあとは適当にごまかして年を越える。
 バレンタインに欲しいものなんかない。
 
「俺は愛が欲しい」
 自前のギターを首からぶら下げて、人の机に腰を下ろした柘植が教室中に響き渡るような声で言った。誰にともなく発せられたアピールなんだろう。
「何それ」
 机の主である坂巻が柘植の肩を叩きながら笑った。
 俺が思うには坂巻は柘植が好きなんだろう。その証拠に、俺が坂巻の隣の席になってから、つまり柘植が坂巻の机に頻繁に腰掛けるようになってから、坂巻は明らかにスカートの丈を短くしたし、何かぬるぬるしてそうなリップを付け始めた。
「今日は何の日でしょうー」
 柘植の好きなギタリストの登録商標ロゴマークが入ったピックを指先で器用に滑らせながら言うと、バレンタインじゃん、ねぇと坂巻は隣の女子に同意を求めた。擽ったそうに笑っている。柘植みたいのはバレンタインのチョコレートをあっけらかんとねだることのできる人種で、俺はそういう奴と一緒にいると楽だ。
「……あ、そうか」
 坂巻たちの答えにブー、と柘植が唇を尖らせたのと同時に俺は柘植のその拙いクイズの答えに気付いて呟いた。
 「誕生日だ」
 そういえば去年もチョコレートだのスコアブックだの、男女構わずプレゼントをもらってご満悦の柘植の姿を、俺はその時まだ柘植と頻繁につるむことがなかったから遠くから見ていたような気がする。中には食べかけの食パンだの読み古しのエロ本だのが混じっていて、大声を張り上げて笑う様子を、違うクラスだった俺は廊下からぼーっと眺めていたんだっけ。
「ピンポーン! さすが! あきちゃん愛してる!」
 線の入っていないギターの弦を派手にかき鳴らして柘植が騒いだ。
 教室の隅の席で眉を顰めるクラスメイトの視線が視界に入った。もうこの時期ともなれば来年の大学受験に向けてノートに齧りついている奴らが少なくない。推薦のことを頭に入れれば来年だなどとたかを括ってもいられないのだけど。
「というわけで、愛、用意しといてね!」
 柘植が下手糞なウインクと投げキッスをばら撒くと、坂巻たちがキモいキモいと言って楽しそうに笑った。
 俺も去年はこんな柘植の周りの賑やかさを外側から見ているだけだったのに、今年はその中に入っている。不思議なもんだ。
「てゆーか、愛って何よ」
 鈍い音を鳴らすギターの鉄線を押さえては離し、その震動を指先で遊びながら訊くと柘植はようやくアピールを止め
「え、……チョコ?」
 かな、と急に語気がしぼむ。
 気の利いたオチも用意してなかったんだろ、と指摘すると柘植がケーキ屋のマスコットのようにぺろりと舌を出して笑う。
 恋は知ってる。
 知ってるつもりだ。
 でも、愛は知らない。