甘いくちびる(2)

「あき、……あき!」
 バイトに向かおうと自転車置き場で鍵を探していると、柘植の大きい声に呼び止められた。
 俺のことをあきと呼ぶのは柘植だけだ。柘植は他人のあだ名を勝手に付けるのが好きで、「ヤスアキ」で「あき」なんてのはまだ良い方だった。中には人前で迂闊に口にされたくないようなあだ名を付けられている奴もいる。
「あき、こっちこっち」
 柘植の姿を探して視線をさまよわせていると、頭上から呼ばれて校舎を仰いだ。三階の窓から手を振っている。
「そんなトコで何やってんだよ」
 日当たりの悪い自転車置き場に面した窓は、一階から四階まで漏れなく便所の筈だった。用を足しながら人のことを呼び止めるな。
「今日バイトー? 何時に終わる?」
 今日、も何も俺は週に五日以上バイトを入れていた。高校生のバイトなんてたかだか平日四、五時間しか入れないし、土日を入れたって月に五万も稼げれば良い方だ。いくらうちが母子家庭でもそんなに金に困ってるわけでもないけど、柘植みたいに金のかかる趣味があるわけでもないけど、大学に進学する気もないけどバイトを頑張りたかった。
 多分俺は、大人になりたいんだと思う。
「何で? 何か用」
 小便を出し終わったのか、柘植が窓の桟から両手を出した。手についた飛沫をとばす真似をする。慌てて避けながら、俺は自転車に跨った。
「ま、いいや帰りに寄るよ」
 タイムカードを一秒でも遅れて通すと十五分の遅刻扱いになる。慌てて自転車を漕ぎ出した俺の背に、柘植の頑張ってねー、という声が聞こえた。

 
 はじめて付き合ったのは高校一年生の時、ネットで知り合った大学生だった。大学生というだけで俺にはその人が大人に見えたし、何よりも初恋の相手を彷彿とさせた。初めて寝たのもその人だ。俺は中学を卒業したばっかりで、初めての夏で、自分の緊張を解すためにエロいことを色々試してみたいんだと強がって、ラッシュを嗅いだりローターつけて――部屋の中でだけだけど――四つん這いになって弄ばれたりした。
 でもケツは痛くて全然ヨクなくて、セミの鳴き声が聞こえなくなる頃には、ケツがヨクないのはその大学生の指がピアノを弾けないからなんだと言って俺は相手に嫌気がさしていた。
 そうして自然消滅みたいに連絡を取らなくなってきて、クリスマスの時期には俺はバイトに明け暮れることが楽しくなってきていた。バレンタインの時期になって、浮ついた世間を見ていたらちょっと久しぶりに連絡とってみようかななんて
 今思うとジコチュー極まりないけど、携帯に電話掛けたら番号をとっくに変えられてた。
 二年生になって、また梅雨の時期を迎えて、俺は恋人なんか要らないよと思いながらネットに書き込んだり掲示板で教えてもらった公園に行ってみたりして、やっぱり怖くなって引き返したりして、夏休みを迎えると掲示板で知り合った人と毎日みたいに順番に逢って、奢ってもらってエッチして、俺ケツ駄目なんだと言いながらそれなりに気持ち良くしてもらっていた。
 知り合った人の友達に音大行ってる人がいると言うから俺はうっかり逢いたいと思ってしまって、しかもピアノ弾いてるんだとか言うから教習生がどうしても脳裏に過ぎって、違う人なんだって判ってるのに逢ってしまったらそれはそれで良い人で
 結局付き合うことになって、夏休みの半分はバイトも殆ど休んでその人と逢っていたけど
 やっぱり秋口にはお互いに会話も噛み合わなくなって、自然に連絡を取らないようになっていた。
 名前は今でも思い出せる。
 携帯の登録ナンバーも消してない。
 
「休憩取った?」
 工場で同じラインを割り当てられた、俺の母親と同じくらいの年のおばさんが俺の肩を叩いた。
「いや、今日俺四時間なんで」
 稼動するプレス機の轟音に負けないように声を張り上げると、あらそう、とおばさんは目を細めて自分の持ち場に帰っていった。
 俺には妹が一人いて、姉が一人いるけど、一応俺は長男ということになっている。俺が男としかエッチしたことないとか言ったら母親はどんな顔するんだろう。
 自分の所為だとか思うんだろうか。
 でもこんな人生がいつまでも続くのだとは思わない。だって夏にしか発情しないような動物的な性欲は霊長類ヒト科としてどうかと思うし、もしかしたら――試してみたことも考えてみたこともないから判らないけど――夏場以外は普通に女を好きになれるような、一風変わったハイブリッドな性癖なのかも知れない。
 だとしたら、一年の四分の三は夏じゃないわけだし、俺だって母親の望むような結婚が出来るのかも知れない。
 可能性の話ばっかりだけど。
 ベルトコンベアで流れてくる化粧品のチューブを点検するのが俺の今のバイトだけど、俺はしいて言えばこのチューブの中の、見落とされてしまいかねない小さな欠陥品なんだろう。
 見落とせばそのまま流れていくし、運良く――或いは悪く――見つかってしまったら、ラインから弾き出される。
 弾き出されることが怖いわけではないけど、自分がどっちなのか興味がある。
「泰明くん」
 名前を呼ばれて振り返ると、俺の上がりの時間に交代要員で来てくれた深夜勤務のおばちゃんが立っていた。
「あ、お疲れ様です。……お先に失礼します」
 なるべく大きな声で言って、頭を小さく下げる。
 おばちゃん相手に挨拶もしないで帰ったなんてことになったら大声で陰口叩かれるんだと、うちの母親が言っていた。母親だっておばちゃんなんだけど、きっと派閥とかあるんだろう。クラス内にだって派閥があるし、職員室でもあるって言うし、俺が近い将来就職でもしたらやっぱりそういうのに巻き込まれるんだろうな。
「休憩室寄ってって」
 更衣室に真っ直ぐ向かおうとする俺におばちゃんが機械音も掻き分けるような大声で言った。振り返ると、ニコニコ笑っている。
「チョコレート、あるから」