LEWD(94)

 工場の機械音が聞こえる。加賀見の部屋の床を響く、重低音。窓から漏れ聞こえる金属を削る断続的な高音。
 目を閉じると私は東京の雑踏を忘れて自分が工場に隣接した事務所にいいるような錯覚を覚えた。或いは陽の差し込まない薄ら寒い加賀見の部屋の中に、彼を目の前にして立ち尽くしているような。
 私の問い掛けに言葉を失っているのは彼の方なのに、私が彼の前に、言葉もなく立ち尽くしているような気分になった。
 私は彼に何を求められているのか判らない。その要求に応える術も持っていない。彼の望みが何であろうと。
『何、――って、何が……』
 彼にとって、私は唯一彼を酷く扱ってやれる存在でしかない。彼はそれ以上、何を求めているのだろう?
『――別に、アンタが何であろうと、……アンタには関係ねェだろ』
 不貞腐れたように加賀見は低く呟いた。
 そうだ、私に何を求めても、何かを求めるだけ無駄だ。
『どうせ、アンタはこっからいなくなるんだしさ
 アンタにゃ東京のほうが合ってンじゃん、――もう帰ってこなくてイーよ』
 触れたら弾けそうな張り詰めた声で、加賀見は言った。その背後で機械音が不意に止む。もう、三時の休憩時なのか。田上さんは今頃工員にお茶を運んでいるだろう。それとも私もいない、加賀見もいない事務所を空けられなくて慌しくしているだろうか。つい一年前までは私の知ることもなかった風景が、今は目の前に容易に想像できる。工員たちの表情も、事務所の隅から漂ってくるお茶の香りも。
「それで、……加賀見さんは? どうするんですか」
 私は彼に何もしてやることができない。彼に何かしてやることが出来るのは、彼が本当に求めていることが出来るのは、社長やその奥方や、田上さんや工員たちだ。
 私の居場所がそこに移ったように映っても、結局は私はそこにいるべきの人間ではないような気がしていた。本社の人間だからということではない。本社にだって私の居場所はない。
 私の居場所など、何処にもありはしない。
『――……』
 加賀見の鼻を啜る音が聞こえた。夜を何処で過ごしたのか知らないが、また風邪でも引いたんじゃないだろうか。それとも治っていないだけなのか。
『……どうしたら、いいンだよ……』
 震えた声がぽつりと呟いた。加賀見の風邪の様子は悪いのかもしれない、声がひどく震えている。しゃくり上げるような息遣いが漏れ聞こえてくる。
「社長と、……お父さんと、もっと話したら良い」
 社長は、息子との接し方を計りかねているのだろう、長い間工場に構い過ぎたのだ。でもそれが息子のためだったのだということを、加賀見は知る必要がある。
 私は加賀見がどうすべきなのか知らない。知っているのは彼自身だし、その為には彼が直接父親と話さなければいけない。人は向かい合わなければ何も望めない。与えられない。一緒に生きていけない。
 私は妻と、そうすることが出来なかった。