LEWD(93)

 再び電話を取った加賀見の声の後ろからは、相変わらず何の物音も聞こえてこなかった。
『何だよ……』
 声の向こう側に耳を澄ます。加賀見のため息。他に聞こえる情報が欲しい。私は自身の息すら殺して耳をそばだてた。
『梶谷さん? 何、イタ電のつもり?』
 加賀見は私を嘲笑するような笑い声を立て、――動いた。衣擦れの音が受話器を擦り、私の耳に飛び込んできた。寝返りでも打ったのか、その瞬間に加賀見の声にも力が篭ったように感じる。
「加賀見さん、……今どこにいるんだ?」
 加賀見がどこかのベッドで寝ているのだとしたら
 傍に誰かいるのだろうか? 東京にいるという友達か、それとも別の男なのか……まさか、lewdということはないだろうか?
『だから、まだアンタの可愛い奴隷ちゃんには会ってねぇって、
 安心しろよ。……そんなに俺に奴隷ちゃんを寝取られたくないわけかァ?』
 周囲の雑踏から耳を塞ぎ、目を閉じた。加賀見の行動が声の抑揚から判りはしないだろうか? 或いは、傍に誰かがいる気配でも良い。加賀見の居場所を感じさせる何かでも。
『安心しろって、俺はアンタみたいな変態と違って男のケツにおっ勃ちゃしねェよ』
 加賀見の機嫌はすこぶる良いようだ。私を手玉に取っているつもりでいるのだろう。笑い声を上げながら――身を起こした。紙を探るような音。ライターの石を擦り、煙草に火をつけた。
「男に掘られて歓ぶような躰だからだろう?」
 私が潜めた声を返すと、加賀見はその煙を器官に吸い込んで、噎せた。携帯電話を口から離す。
 何の音だ?
 何かを打っているような、金属音が聞こえたような気がした。
『何ほざいてんだよ! ぶっ殺すぞアンタ! 俺がいつ、アンタにケツ掘られて歓んだって――……!』
 遠い轟音を掻き消すように加賀見が噛み付いてきた。
「締りの良い穴があれば男は突っ込みたくなるものだよ、
 それよりも尻穴を裂かれて何度もトコロテンでイったアンタの方が余程、変態だ」
 我ながら酷い言い種だとも思ったが加賀見は言葉を詰まらせて歯を噛み締めているようだ。私の行いを正当化するつもりなどさらさらない、確かに私は変態かも知れないが加賀見にとってもこれは図星だっただろう。
 私に犯されたことが良かったから、こうして私に絡んでくるのだ。大体彼がlewdに逢ってどうしようというのだ、虐げられたいと願っている者同士が逢って何になるというのだろう? lewdは知らないが、加賀見はこの世界に深く居座っているわけではない、虐げる側も楽しめるとは到底思えない。
 加賀見はlewdに逢いに行くと言って私を振り回すことが目的なのであって、lewdに逢うことが目的なんじゃない。
『大体アンタがなァ、いつも無理矢理、俺がイクまでしつこく――』
「そうか」
 加賀見の途切れ途切れになった反論を遮って私が呟くと、加賀見が素っ頓狂な声を上げて私の言葉を聞き返し、それきり黙った。
 その電話機の向こう側からまた金属音が漏れ聞こえてくる。今度ははっきりと聞こえた気がした。
「加賀見さん、……今、家にいるんですね」
 これは工場でいつも聞いている、機械の轟音だ。
 加賀見はlewdに逢う必要などない。私を混乱させ、慌てさせれば良いだけなのだから。
『……何、言ってんの? 俺新宿行って――……友達の家に』
 早口にまくし立てる加賀見の声が急に苛立ち始めた。悪戯を弁明する子供のように。いや、まだ弁明にもなっていない。ばれた嘘を、誤魔化そうとしているだけだ。
「工場の音が聞こえますよ」 
 私が加賀見を追って東京に発った後、加賀見は他所で時間を潰していてから悠々と家に戻ったのだろう。夜を明かしてしまった所為で今頃のんびり昼寝中か。社長やその奥方は今頃――私への連絡先を探しているかも知れない。
『…………ッ!』
 加賀見が携帯電話を握り締める音すら聞こえてきそうだ。
 余所に向いてしまった親の注意を引き付けるために、子供が自分を心配してもらおうと無茶をすることがある。私に子供はいないが、甥に弟が出来た時に彼は家の物置に隠れて私の弟を心配させたと聞いたことがある。加賀見の今回の行動は正しくそれだ。lewdからの動画を見て、私の注意がlewdに向いてしまうとでも思ったのだろうか。
「加賀見さん」
 私はため息を吐いて、彼が苛立ちのあまり通話を切ってしまう前に言葉を繋げた。
「私は、あなたの何ですか」