LEWD/番外-Ⅲ

 逃げ出したいと何度も思った。
 馬鹿馬鹿しいと怒鳴り飛ばしてパチンコに行きたかった。
 実際そうしようと何度も思った。
 でもその度に、こっちの衝動を見透かしたように親父は口火を切った。
 その癖またすぐに黙る。
「で、結局何が言いてェんだよ」
 卓袱台についていた肘を上げると、お袋は小さく肩を震わせる。事務所のばばぁと同じ反応だ。
「何が言いたい、というのはないんだ、つまり――……」
 親父の話は要領を得ない。
 いつもそうだ。俺が夜帰ってこないような生活をし始めた時も親父は俺の部屋に勝手に入ってきて何かぐちゃぐちゃと話していたけど、結局何が言いたいのか判らなかった。
「お前も判っていると思うけど、ここの所工場への発注がぐんと減ってしまった、……何でだか判るな?」
 親父は自分の膝の上に置いた自分の手を見下ろしたままとろくさい口調でぽつぽつと喋る。しかも、語尾がいつも疑問系で、俺にいちいち了解やら確認やらを取ってくるから、だからうざい。聞いてるかどうか不安ならもっと聞こえやすく話せっつんだ。
「あのおっさんの会社が工場を裏切ったからだろ?」
 卓袱台から離した手を背後に突くと、天井を見上げる。大きな溜息が漏れた。
 確かあのおっさん、工場を守ろうと思ってるくらいのこと言ってたんじゃなかったっけな、嘘ぶっこきやがって。
「裏切ったわけじゃない、……本社の方針だ、自分の会社を守るためにより低コストで下請けをしてくれる工場に――」
 それは何度も聞いた。
 だから何だって聞いてんだ。そろそろ工場が潰れるって言いたいなら、手っ取り早くそう言やイイのに。そろそろパチンコ屋も閉まる時間だ。今日は諦めた方が良いかもしれない。また溜息が漏れた。
「で?」
 親父に視線を戻すと、まだ親父は俯いていた。
 その視線の先には機械油が染み付いていくら洗っても黒ずんだ、太い指があった。
 大昔は、俺はその手に頭を撫でられるのが好きだった。工場にあった機械がまだ今より新しくて、工場のじじぃどももまだもう少し若くて、事務所のばばぁもまだ優しくしてくれた。
 親父はいつか工場を俺にくれると言っていて、学校から帰ってくると俺は真っ先に工場に降りて行って親父に機械の説明をしてもらうのが好きだった。
「工場、閉めんの」
 黙ったまま何も言わない親父を苛めるつもりで言うと、母親も顔を逸らしている。
 工場なんて、今更どうなろうと知ったことじゃない。こんな貧乏工場貰ったところで親父みたいに苦労するのはうんざりだし、今残ってる取引先のじじぃどもも俺なんか跡取りだとは思ってないだろう。工場の奴らだってそうだ、親父が死にでもすれば工場なんかいつ辞めたって良いと思ってんだろう。お前らもう年金生活者なんじゃねーのかっていうような死に損ないばっかりだしな。俺だって、もし工場貰ったところでそんな娯楽で働いてるような奴らいらねーよ、と思うし。
「お前は、東京に行きたいんだろう?」
 待ちに待った挙句にそれかよ。
 返事になってねぇだろ。
 俺は親父にハァ?と聞き返すと体を起こした。
「工場閉めんのかって訊いてんだろ? 意味わかんねーし」
 工場を閉めるということは、俺も仕事を探さなきゃならないということだ。楽して稼げる仕事を探すには東京出た方が一番かも知れないけど、親父の言い種じゃまるで俺が東京に行くために工場を潰すみたいだ。責任転嫁もいい加減にしろよっつー話だ。
「お前が東京に行きたいというのを止めようとは思わない、
 お前にはそれが合ってるとも思うんだよ、いつまでもこの工場に引き止めていて悪かった」
 別に、引き止められていたつもりはない。
 ただそんなに遠い場所でもないから飯の勝手に出てくるココに残っていたというだけの話だ。それに、ココ以上に楽して金が貰える場所もなかっただろうし、
 ――そう言い返そうとしても、親父は視線を伏せたまま唇を結んでいて、俺は言葉を飲み込むしかなかった。
「私たちはお前に残せる金がないんだ、
 この土地を売れば少しの足しになるかもしれないけど――私たちが死んだら、好きにしても良いから」
 死ぬ?
 何言ってんだ。心中でもするつもりかよ。良い年して。あとちょっとすりゃ嫌でもくたばるだろうに。
「何、……言ってんだ……ボケたのか?」
 笑い飛ばそうにも、顔が引き攣ってうまく笑えない。
「借金は残せないから、少しでも経営が回っているうちに工場を閉める。――工場を閉めたら、お前は好きにして良いよ。東京でも何処でも、好きなところに行けば良い。
 私たちは此処に残るから、――私たちが死んだ後は、この土地を売ってお前のために使ってくれ」
 俺は
 自分の思い通りにならないことがあるとすぐに切れるから小学生の内から友達が少なかった。
 学校で一人になっても別にどーってことなかったけど、学校から帰ってくると遊びに来るような友達は殆どいなくて
 でも俺は工場があったから、工場に降りていけばおっさんたちが皆で俺を構ってくれて、俺は工場が好きだった。機械の回る音も、油の匂いも、今でも夢に見るくらい好きだった。今だって一階に降りれば嗅げるけど、その時感じた匂いはぜんぜん違った。
 高校に入って、馬鹿騒ぎできる友達が出来て、一度家に連れてきた時に工場を笑われたことがあった。俺は友達をなくすのが怖くて一緒に笑ったけど、それ以来友達は家に連れて来れなかった。
 こんな流行らない工場恥ずかしいと思った。でも、今だって工場の音を聞くと安心できた。機械が回りだす鈍い低音も、断続的な甲高い金属音も、俺はそれを聞いていると何だか誇らしい気持ちになった。
「……工場、」
 俺は卓袱台に肘を戻して頭を抱えた。右の耳を塞ぐと、小さい時からこびりついて離れない機械音が聞こえてきた。
「閉めなきゃ、やってけねェの」
 かーっと瞼が熱くなってきて、俺は慌ててもう一方の腕で頭をがっちりと覆った。左の耳からは梶谷さんの声が聞こえてきた。
 親父と話せだと?
 遅ェよ。もっと早く話せてたら、俺だってもう少し何か出来たのかも知れねぇのに。少なくとも、勤務時間内は事務所に座ってたよ。そしたら、もっと長いことあの音を聞いていられたんだ。一秒だって長く、あの音を聞いていられたのに。
「今閉めれば、借金が最低限で済むんだよ」
 会社に借金があることは俺だって少しくらい知ってる。俺は会社のために何もしてない。借金を少しでも減らそうとか考えたことがなかった。
「柊、お前は好きに生きて良いんだよ。――今まで、有難う」
 いきなりこんなことを言われても、俺は
 親父を助ける方法が一つも判らない。
 
 翌朝には工場閉鎖の旨を工場のじじぃどもにも発表された。
 じじぃどもはさすがに予想していたことだから、親父に労いの言葉を掛けて、すぐにその日の仕事に戻った。
 田上のばばぁは一日中沈んだ様子で――こいつはいつも辛気臭い面をしているけど――たまに溜息なんかついて伝票をまとめていた。
「便所」
 俺が席を立ち上がると、ばばぁは未だにびくついて俺の顔色を窺う。
 その顔を見ていたくなくて、俺は事務所を出て工場の便所に向かった。昔は、この便所は虫が多いから怖くて一人では入れないと扉を開けたまま小便垂れていた。
 いきなり顔を覗かせた俺に工場の死に損ないどもが顔を見合わせる。
 俺は鼻がつんとするような匂いの立ち込めた汚い便所に入ると携帯を取り出した。
 短縮番号には梶谷さんの名前が入っている。でも、今更鳴らしたところであのおっさんは俺のことなんか忘れているかも知れない。多分、本社からお呼びが掛かった瞬間に忘れただろう。俺は現地妻って奴か。
 自分で思いついた笑えない冗談に、俺はうな垂れた。
 工場が潰れたら
 俺は東京に行くだろう。
 その時、梶谷さんは俺に逢ってくれるだろうか。