PRESENT(1)

「キスして良い?」
 頬の上に掌が滑る、そんな事を許している時点で判りそうなものだが、純は訊いてきた。僅かに伏せた視線を上げると口端が笑っている。
「抱きしめて良い?」
 顎を上げて口付けに応じようとすると今度は広げた腕を俺の背に回そうともしないで首を傾げた。
 思わずキレそうになるのをぐっと堪えて開かれた胸に体を預ける。ここで文句など言ったら純は冷たく俺を非難して、帰ってしまうんだろう。帰ってしまうのならまだ良い。こんな夜に何処か他の男のもとにでも行かれたら堪らない。
 そもそも俺が悪い。俺達が付き合い始めて、初めて迎えた純の誕生日に寝坊して遅刻したんだからな。
 それに気付いた時の俺はもう体中の血液が宇宙の彼方まで一気に吸い上げられた気分で、いっそ誰か殺してくれとさえ願ったほどだった。
 一ヶ月前から用意してあった一張羅に袖を通すことも出来ず、寝ぼけた顔を洗う間もなく家を飛び出して待ち合わせ場所に向かった。
 もう居ないかと思った純は三十分以上遅刻した俺を待っていてくれて、じゃなかったら殺されるかと思ったのに、案外上機嫌だった。
 記念すべき誕生日に雅に逢えただけで嬉しいよ、などといつも通りのふざけたこと言って、俺が着替えていかなかった所為でろくな店にも入れなかったけど食事をして、俺の部屋に来た。
 他の男の所にも行かず、俺を怒るわけでもなく、一緒にいてくれてるんだからこれくらいの意地悪は素直に従ってやらなくちゃいけないんだろうな。誕生日プレゼントみたいなもんだ。
「膝の上に座って」
 ようやく背中を抱いた純の腕が俺の体を引き寄せて膝の上へと促す。
 純は意地が悪いし変態だし、気障だし手癖が悪いし、浮気を浮気だとも思わないしむかつくし、怖いし、本当に気の安まるような恋人とは言えないけど、こうして抱きしめられてると脳の奥がとろとろに蕩けそうになる。
 誰から貰ったのか知らない感じの良いトワレに鼻先を擽られて、俺の純の背中に腕を回すと心臓が鷲掴みされたような気分になる。気持ちの良い苦しさに包まれる。
「もっとキスして良い?」
 何でだろうと思う。いつも思う。答えはいつも出ない。
 二人して泥のように眠り込んだベッドの上で純より早く目覚めた朝はたっぷり考え込む時間があるのに、いくら考えても答えが出ない。
「いちいち訊くなよ」
 俺は憮然として答えながら純の首筋に唇を埋めた。短く吸い上げると擽ったそうにその肩が揺れる。俺は純を抱き返した腕に僅かに力を篭めた。
「だって後で怒られるの嫌だし」
 純が声もなく笑うたびに、俺の鼻先を掠めていくトワレに混じった純の体温。何でこんな日に、こんなトワレなんか付けてくるんだろうと無性に腹立たしくなってくる。嫉妬にかき立てられる。風呂に入って町内を一周してきて欲しいとさえ思う。そうすれば間違いなく俺は純本人の臭いを嗅ぐことが出来るのに。
 いつもならそんな我が儘でも(純の気分次第では)聞いてくれるかも知れないけど、今日は勝手が違う。今日は俺の誕生日なわけでもないし、しかも俺は寝坊してるし。
「怒んねぇよ」
 そう、今日はぎゃあぎゃあと照れ隠しに騒いだり怒ったりもしないし、変態純を殴ったりも蹴ったりもしないし、我が儘も言わないし、純のしたいことをして良いと心に決めたんだ。
 ──勿論そんなこと言ったら純がとんでもないこと言い出すのは目に見えてるから言いはしないけど。
「じゃあ、直に触って良い?」
 数時間前に慌てて着たシャツの裾を捲り上げて、純が訊いた。しつこい奴だな、と怒鳴りたい気持ちを努めて飲み込んで、首をただ上下させた。
 俺が罪悪感を感じて言いなりになっていることは純にも伝わっているのだろう。だからしつこく意地悪を仕掛けてくるのに違いない。
 でもまだ、こんな意地悪なら可愛いものだ。ぐっと堪えて──堪えていられる範囲なら──やろうじゃないか。
 純は俺の耳朶に短く何度も口付けながら忍ばせた指先をそっと背筋に這わせた。どっちも掠める程度の刺激で、俺は擽ったさと甘美な痺れの狭間でぶるっと躰を震わせた。もっと熱く、甘く愛して欲しいのに。
「乳首捏ねて良い?」
 耳朶から顎先、頬を通って鼻頭、瞼の上……と顔面にしか唇を滑らせてくれない純が俺の表情を見下ろしながら囁くように言う。
 純の掌は冷たくて、乾いている。ざらついていて、ぞくぞくする。何の感情も持たないような肌に触れられて、俺だけが熱くなっていく。
 最初の内はそれが嫌で嫌で、純に求められるたびに泣くほど拒んだ。俺が本気で嫌がっていると純も無理強いする気はなくて、苦笑しながら躰を離す。でもそのまま何処か別の所に行かれるのは嫌で、俺は純の服の裾を掴んで顔を伏せていた。
 何を話すでもなく、躰を重ねるでもなく、ただ一緒にいるだけという夜が何度もあった。
 やがて純が俺にその冷たい掌を握らせ「じゃあ雅が暖めてくれれば良い」と言ったその晩から、俺は純の掌が嫌じゃなくなった。冷たさも、ざらついた感触も、俺だけが熱くなってるんじゃないか、という不安というか恥ずかしさはあるけど、嫌じゃない。怖くない。ただ、骨の芯までぞくぞくとして、感じる。