RED(3)

「あの子は私が殺したのよ」
 笑って言った女を、
 ――実の母親を、すばるは眉を潜めて凝視していた。
 その横顔は、あの日、母の誕生日に俺を実家に帰れと促した優司に似ていた。
「あなたは?」
 女の目が、すばるの横顔を見た俺に向けられた。妖艶な目とでもいうのだろうか、この場においてはおぞましい物にしか見えないが。
「俺は、優司くんの」
 口先だけが空回りしているような感覚にとらわれた。気持ち悪くなった。
「……親しい、友人です」
 そう、ただの親しい友人だ。
 俺の母親にとっても、優司は俺のアトリエに間借りしている親しい友人でしかない。俺と優司の関係を知らない人にはそう見えて当然だしそう見えるようにしていた。だけどその実、俺は本当に優司と親しかったのかどうか、知らない。
 俺が思っているような「恋人関係」にあったのかどうかも判らなければ、人に言うような「親しい友人」でもなかったかも知れないと思うことは今に始まったことじゃない。でも、ここでこうして俺の勝手で優司の過去と対面しているという状況で優司との関係に自信をなくすことは俺にとって、相当堪えた。
 そんな俺の気持ちとは関係なく、女は「そう」とだけ短く答えて、頷いた。
「優司とあの子の姉、沙夜香はね、前の夫の子なの。あの二人は夫にそっくりで、可愛くなかった」
 女が傍らの煙管を手に取った。仕草一つとっても、悪びれた様子はない。自分の言動を恥じる様子も。
「だから、捨てたの」
 まるで、子供が気に入らないぬいぐるみを捨てたように吐き捨てる。
「あの子達は、頬を叩くと声を殺して泣くような子だったの。子供二人でコソコソ慰め合ったりして、厭らしい」
 隣で小さく骨が軋む音がした。すばるが奥歯を噛み締める音だった。
「……幾つの時です」
 俺はすばるから気を逸らそうとして発言した。努めて冷静に振舞った。
「沙夜香が十三、優司が九つの時だったかしら……覚えてないわ」
 彼女にとってそれは、何てことないことだった。
 子供は自分の腹を痛めて産んだもので、だから自分の所有物で、捨てるのも思い通りになると思っていたんだろう。
「母さんは、……人間じゃない」
 すばるが青い顔を震わせて呟いた。
「何てことを言うの? 昴、あなたは私の可愛い可愛い息子なのに。母さんを愛してくれないの?」
 この女は正直で、発する言葉の一つ一つに深い意味なんてないんだろう。
 きっと男を愛すことも、子供を産むことも
 深い意味のないことだったのだ。
「優司は、あなたにとって一体何だったんです」
 優司ばかりがどうしてそんな目に遭わなくてはいけなかったんだ。
 人を信じられず、一人きりのままで
「どんな風に彼らを捨てたんです」
 人を信じられず、それでも寂しくて寂しくて人の肌に依存して
 精一杯一人で生きようとして、姉が亡くなってからは涙一つ見せなかった。
 俺に弱音一つ零さなかった。
「どうして優司を殺したんです?!」
 俺が傍にいるって言ったのに。
 優司が望んでいなくても、俺じゃ役不足でも
 傍にいるだけなら、優司が夜中に目を覚ましてしまった時に抱きしめてあげるくらいなら
 俺が一生、してあげられたのに。
「何なのよ、しつこいわね」
 女は眉根を寄せて俺を見た。
 汚い物を見るかのように、赤い唇を歪めて。
「うるさい。あんたにとって子供はただの人形なのかも知れないけど、子供にしてみりゃあんたっていう母親は一人しかいないんだ、あんたは」
 気付くと、俺は泣いていた。
 優司
 優司。
 俺は優司が大好きだった。
 今でもパンクしそうなくらい、愛していて
 この思いをどうして良いのか判らないくらいだ。
 優司、今寂しくはない?
 俺は寂しいよ。
 今度はいつ会える?
 今度逢ったら、優司が俺を嫌いだとはっきり言うまでこの腕に抱いて、絶対に離さない。
 出版社でもどこへでも、つれて歩けば良かった。
 どうして一人で、逝っちゃったんだ……?
「あんたに、そんなことをする権利があるのか!」
 掠れた声を搾り出した俺の言葉から耳を塞ぐように、女は立ち上がった。
「答えてよ、母さん」
 女を追うようにすばるの低い声が響く。障子に爪先を向けた女が、振り向いた。ぞっとするような見下した瞳で。
「昴、あなたまでそんな子になってしまったの?」
 彼女にとっては溜息を吐くのも同然の言葉で、意味なんてないんだろう。
 だから、彼女の言葉に傷つく人間の気持ちを理解できないんだろう。
 出来ることならこの胸に腕を突き刺し、この気持ちを取り出して見せてやりたかった。俺がどれだけ優司を愛していて、優司を亡くしてどれだけ悲しいのか。
「あの子達は私を殺そうとしたのよ。私の前の夫を殺したのもあの子達。前の夫は鬱を患っていてね、睡眠薬をあんなに服用したのは、あの子達に言われたからだわ」
 あんな子供達のことを口にするのも嫌だ、というように女は踵を返して部屋を出て行こうとした。下卑た笑いすらなくした男が障子を開く。
「……だから沙夜香も優司も、私が殺される前にこの人に殺させたの。そして私は、この人と結婚したのよ」
 障子を開けた男を見下ろした女が笑った。
 優司の姉の死因は何だっただろう。
 あれも、事故死だったはずだ。
「昴。母さんのところに帰ってくるなら今の内よ」
 障子の前で女は一度だけ言った。
「二度と帰って来ないよ」
 それに答えたすばるの声は、今まで聞いたこともないくらい震えていた。
 すばるの怒りも苦しみも、俺は何一つ親身に判ってやることは出来ない。俺は俺の悲しみと絶望だけで精一杯だった。
「そこのあなたも。あんな子達に何を吹き込まれたのか判らないけど、あんな子、いつまで覚えていたって無駄よ」
 悲しみの底で、何かが火を噴いたように体が熱くなった。
 優司は何も言わなかった。自分の悲しみを俺に何一つ、教えてくれなかった。
「あんたの産んだ子供だ!」
 悔しくて悔しくて、俺は狂ったように怒鳴った。喉が破裂してしまえば良いと思った。こんなに苦しい思いをするならこんな体はどうなってもいいから、この女に自分の過ちを悔やんで欲しい。
「あんな子を産んだのはお金の無駄だったわね。産んですぐ、トイレにでも流してやれば良かった」
 そうすればこんな面倒もなかったのだと言い残して、女は部屋を後にした。
 慌てて男が後を追う。
 残された俺とすばるは何も言えず
 まるで最悪の夢を見ていたかのように頭を抱えて、もう震えることすら出来ないでいた。
 頬の上を流れていた涙も乾いた。
 心の中にはただ、優司優司と愛しい人の名前だけが響いている。幾ら呼びかけても返って来ない、どんなに探しても優司の姿はない。
 優司を亡くした日のような、優司がいないことを受け入れられなかった日々をぶり返したような虚脱感に襲われていた。
「……あ、たる ……」
 すばるが、俺の肩に恐る恐る触れた。
「ごめ……ん、ごめん――……ユージさんのこと、俺……ごめん、……ごめ……ッ」
 すばるが謝ることなんか何もないのに、すばるは何度も謝って、畳に頭を伏せ、声を詰まらせた。
「も……」
 俺はすばるに謝るな、と言うことすらできなかった。
 すばるが悪いんじゃない。
「もぉいいよ……」
 もう、終わったんだ。
 優司、
 俺はこんなこと知らなかった方が良かったのか?
 知ってても、良いよな?
 とにかく、今やっと全て終わったんだ。
 終わってしまったんだ。
「もういいよ――」
 俺は繰り返して、その場に崩れ落ちた。
「あたる! あた――……」
 俺の名を呼ぶ、すばるの声だけが耳にこだました。