RED(2)

 俺はタクシーを降り、望月呉服店と書かれた看板を見上げたまま女将の冷たい表情を思い出していた。
 どうして優司は独りで死んだんだろう。
 どうして優司が死ななければいけなかったんだろう。
 どうして、どうしてと冷静な筈だった自分の胸の奥が熱く傷んでくるのを感じる。
 この家が優司の帰る場所をなくしてしまっていたって良い。俺が優司の家になる。
 優司が寂しくてどうしようもない夜は一晩中だって背中を撫でている。
 どうして、優司が独りで静かに生きていることすら、奪われなければならなかったんだろう。優司自身の、家族に。
 俺は首を一つ振ると、大きな声を張り上げて怒鳴り散らしたい気持ちを押さえ込んで暖簾を潜った。
「いらっしゃいませ」
 数日前のように俺を振り返った店員さんが、俺の姿を見るなり口を開いて、ああ、という顔をした。
「緑光社さん」
 パンフレットのゲラでも上がったと思っているんだろうか、可愛らしい店員さんはにっこりと微笑んで頭を下げた。一瞬否定しようかと思った俺の考えを遮るように、彼女は少々お待ち下さいと告げるとその温和な空気とは裏腹にきびきびとした動きで裏に引っ込んでしまった。
 叫びだしたいような気分はなくなっていた。
 俺の中で狂っていた歯車が、これ以上はないというくらいにズレきってしまって、もう正常な位置も判らなくなってしまったんだろう。
 それは「怖いものは何もない」のとは少し違う。もう何も、感じられないだけだ。
「申し訳ありません」
 青い反物の前で止まっていた俺に、先刻の店員さんがそっと声を掛けた。
「ただいま女将は手が放せないようで」
 眉尻を僅かに下げて、心底申し訳なさそうに店員さんは言う。
 俺は、その言葉を全身で拒絶した。
 耳には留めているけれど、聞き入れるつもりなどなかった。
 ……その時俺は、どんな顔をしていたんだろう。
 店員さんは一瞬声を詰めた。
「大事な用、……なんですが」
 そう言いながら、俺は自分のしようとしていることがどれだけ大事なんだろうと考えていた。
「はい、……あのもう少々お待ち下さい」
 また引っ込んでいく店員さんの後姿を見ながら
 女将や、あの殺人犯と対峙することで何を確認して、俺の中の何を、どう満足させたいのだろう。
 優司を失って食事が喉を通らなくなった。
 痩せ細って親に心配をかけ、やがて仕事をするようになった。
 すばるに逢って、優司を思い出した。すばるの明るさと比較して、優司が恋しくなった。
 すばるを傷つけて、また仕事を放り出した。自分の絵を失くした。
 俺はまた元通りになれるかも知れない。でも、また同じことを繰り返すだろう。人を愛すことも出来ずに、人と触れ合うことを避けて、坂森や高嶋たちが結婚し、子供を育てていくのを見ながら、また優司のことを思い出すだろう。
 その先に進みたい。今までにケリをつけたい。
 俺は、優司と別れたがってるんじゃないのか?
「お待たせしました」
 程なくして旦那が出てきた。
 優司を
 殺した男だ。
「すみません、無理を言って」
 俺は自分の顔にべったりと張り付いた笑いを意識しながら頭を小さく下げた。
「今日は、先日お断りしたお茶を頂きに上がりました」

 優司を轢き殺した男は酒気を帯びていて、その場で警官に補導された。
 俺は裁判の席で初めてその男を目の当たりにした。ガタイの良い、脂ぎった男だった。
 優司を轢き殺した男だからなのか判らないけれど、俺はその男を一目見て嫌悪感を覚えた。
 判決は八ヶ月の懲役と、罰金。
 裁判官の判決の声を聞いた時、その男は笑ったんだった。

「先日お伺いした後で、こちらの家がすばる君の御実家だと知りまして」
 口だけが俺の強張った意思とは関係なくべらべらとよく動いた。
「すばる君にはお世話になっているものですから」
 男の表情が歪んだ。困惑しているのかも知れない。
 その時、あなた、と奥から女将の声がした。
 優司を裏切った女。
「それから、」
 俺は男が奥を振り返るよりも前に言葉を挟んだ。
「――優司くんにも」
 その名前を、この場所で口にするだけでも眩暈を覚えた。
 だけどそれを男に悟られまいとして、いっそう笑みを深くする。男の表情が困惑から驚きに変わった。
 傍聴席にいて被告席を睨みつけていた、俺の顔なんてこいつは覚えていないだろう。これからでも良い、殺してやることも生ぬるいくらいお前を憎んでいる俺の顔を、覚えさせてやる。
 顔が熱くなっているのが判る。
 俺は今、きっと鬼のような形相をしているんだろう。
 胸の中が、キャンパスに書き殴った俺の自画像みたいにどす黒く染め上げられているのを感じた。
「……生前はお世話になっていました。――あなたが轢き殺した、あの人に」
 店内にいる人に聞こえ渡るように言うつもりが、怒っているのか泣いているのか
 か細い、震えた声になって男の耳に届くのがやっとだったようだ。
「な、……中に入って」
 男が漸く声を絞り出した。
 蒼白した表情。俺はこんなのが見たいんじゃない。
 俺は男に促されるまま、履物を脱いで店の奥に進んだ。呉服店の奥というよりも、望月邸なのかも知れない。
 優司の生まれた、家。
「あなた、何をしているんです」
 障子を開けた途端、男にヒステリックな声が噛み付いた。
「あ、……あの」
 狼狽した男が、背後に立った俺を示した。女将は両目を醜く血走らせて俺に視線を向ける。
 こんな女が優司の母親かと思うと、何か馬鹿げた夢を見ているような気分になった。目が覚めたら優司にこんな夢を見たよと言って、笑わせてやれるかもしれない。
「どうもこんにちは」
 緑光社です、と続けようとして声が出なかった。
「……どうしたの?」
 腹の底を抉るような低い、冷たい声。
 男はただ喉を震わせて視線を泳がせているだけで、女将に口答えが出来ないでいるようだった。
「優司くんのことで」
 俺は言った。顔はやっぱり笑っているつもりだったけれど、さすがにそれは難しかった。
 この家で優司は幾つまで育ったんだろう。
 願わくば、自分の家族は居なかったんだと思っていて欲しかった。物心つく前にこの両親の許を離れていたらそれも可能かも知れない。
 それともこんな親でも、居ないよりは寂しくないのだろうか。
 優司を殺しさえしなければ。
「どうぞお入り下さい」
 小さく溜息を吐いた後、女将は疎ましそうな表情で言った。
 男が引いた敷居を跨いで居間に入ると、そこには先客がいた。
「あたる……」
 すばるだった。
 俺はすばるを無視して、すすめられた座布団に胡坐をかいた。女は着物の裾を叩いて卓の向こう側に座る。男は障子を閉め、下座に位置した。
 時計の秒針が半回転するまでの間、誰も物音一つ、立てようとしなかった。
「あたる、……聞いたの?坂森さんに」
 小さい声ですばるが尋ねた時、女がこれ見よがしに大きく息を吐いた。
「誰も彼も、何だっていうの?」
 鬱陶しい、と聞こえた。
 高く結い上げた髪の後れ毛を直しながら眉間に深く皺を寄せ、口角を下げながら吐き捨てればそれはあながち間違った本音でもないだろうと思えた。
「昴、あなたまで」
 俺の隣ですばるがびくりと躰を強張らせる。
「あなたには関係ないことなのよ、あんな子のことは」
 すばるは深く俯いていた。正座した膝の上に拳を作って、白くなるまで握り締めていた。
 女はまるで女王気取りでキセルを手にすると火を入れた。
「何度言ったら判るの? 良いからもう、行きなさい」
 すばるは母親に何も言わず、隣の俺を盗み見た。
 俺はすばるに関係のない話をしに来たのだし、すばるがいない方が話しやすくもあったから何も反応を返さなかった。
「――嫌だ」
 俺が何も言わないのを見て、すばるは低く答えた。
「母さんはまだ何も答えてない」
 下唇をきつく噛んだすばるに、女は眸を細めると
「何も言うことはないのよ」
 紫煙とともに吐き捨てるように答えた。
「いいじゃない、あなただけが」
 女がそこまで言った時、すばるが弾かれたように顔を上げた。
 その先を、制するかのように。
「――あなただけが、私の可愛い子供なの」
 すばるの意図など知らずに告げた女の言葉に、すばるがまた顔を伏せる。首を縮めて、この場を拒絶するかのように小さく躰を固めて震えている。
 俺は今更、そんな言葉を予想していたけれど
「じゃあ、優司はあなたにとって何です」
 恐らく何も言えないであろうすばるの代わりに、俺が口火を切る。俺は不思議と、震えもしなかった。
「あの子は私が殺したのよ」
 下座で怯えている男をからかうように、俺やすばるを嘲笑うかのように、女は声を零して笑った。