秘密(5)

「では、今夜の出会いを祝して――……」
 総勢七名の視線を一身に浴びて蔵原は勿体つけると、一つ、咳払いをした。
 溜め過ぎ、と小さな声が上がる。
 蔵原が口端を引き上げて、笑った。それから手の中のジョッキを頭上高く掲げ。
「かんっぱーい!」
 号令と共に、テーブル上でもグラスが掲げられて、それぞれが硬い音をたてた。
 大半がビールで、女性の手には色とりどりのカクテルが注がれている。
 久瀬も手元のグラスビールを控えめに掲げると、正面の女性とグラスを重ねて、すぐに引っ込めた。
「乾杯、乾杯」
 蔵原は立ち上がっていた腰を下ろすなり忙しなく全員のグラスに腕を伸ばしてそれぞれ挨拶回りに忙しい。
「はい、久瀬さんも。乾杯」
 最後に、末席の久瀬にグラスを合わせるとようやく落ち着いたようにジョッキを呷る。
「あー、良かった。久瀬さんが着てくれなかったら面子揃わないところでしたよ」
 一息でジョッキの半分ほども飲み干した蔵原は、口の端に白い泡をつけたまま屈託ない笑みを浮かべた。
「まさか。他の人呼ぶつもりだったんじゃないの」
 テーブルの上では好き勝手に注文された料理を女性たちが取り分けながら、既に歓談を始めていた。
 淡い色の洋服に身を包んだ女性たちは、一様に似たような化粧を施して、同じように控えめに笑う。久瀬にはどの女性も若く美しく見えて、大差がない。
 それでも蔵原が呼んだ他の男性社員二名には既に標的となる女性が決まっているようだ。それは女性側にも言えることなのだろう、久瀬の正面にかけた女性は、蔵原の様子を気にかけている。
「久瀬さん呼んでるのに他の人誘いませんよ。まあもしそんなことがあってダブルブッキングになっちゃったら、俺が抜けたかな」
「そんな、」
 もし冗談だとしても、そんなことを言うものじゃない。正面の女性の視線を気にして久瀬が首を振ると、こちらを気にかけた女性と目があった。思わず互いに、苦笑を漏らす。
「それじゃあ、彼女たちの知らない人ばかりになるじゃないか」
 ねえ、と同意を求めて久瀬は女性を会話に引き入れた。うん、と女性も首を縦に振る。実際のところ、彼女たちが蔵原と友人なのかどうかも判らない。ただ、この酒の席を通して蔵原ともっと親しくなろうと思っていることだけは窺える。
「いやそこは、俺が乾杯の挨拶だけして、あとは若い皆さんで…みたいな」
 ジョッキを傾けながら蔵原が笑う。すぐに一杯目を開けてしまいそうな勢いに、蔵原の向かいに座った女性が店員を呼んでビールを追加した。
「何言ってるの、蔵原くんの方が若いでしょ」
 皿が遠いからという理由で取り分けてもらったサラダを受け取りながら、久瀬は首を竦めた。
 蔵原が気を使ってくれるのは判るが、これでは久瀬が女性の目の敵にされかねない。
「久瀬さんはおいくつなんですか?」
 正面の女性が、ここぞとばかりに身を乗り出して蔵原と久瀬の会話に加わった。久瀬は正直安堵して、話し上手な蔵原がこのまま彼女との会話を膨らませてくれることを期待した。
「幾つでしたっけ、松岡先輩と同期ですよね?」
 蔵原が指折り数える手を新しく運ばれてきたジョッキに伸ばしながら、首を捻る。
 胸の奥がギクリと強張った気がして、久瀬は思わず鼻梁に指を触れた。
 眼鏡がない。
 昨晩、壊れてそれきりだ。
 自分を守るものをかなぐり捨てたままこんなところまで来てしまったことを、久瀬は後悔した。
 こんな席で、暗い表情をしているわけにもいかないのに。
「そう、それであいつが俺の同期で――……」
 女性と蔵原は無事に会話を軌道に乗せて、声を弾ませている。
 久瀬はやり場をなくした手をグラスに宛がうとビールを飲み干しながら、適当に口を挟んでは相槌を打った。
 他愛のない話に興じて表情をほころばせる女性の顔は酒の力も借りてか上気して、いっそう可愛らしく見える。蔵原も会社で見る顔以上に表情をよく変え、場を盛り上げている。まだ学生気分を引きずっているようなはしゃぎようだが、今の久瀬にはひどく心地よく思えた。
 松岡の影が色濃く残ったままの、あの部屋に一人でいるよりはずっとましだ。
 松岡に傷つけられたとは、不思議と思わない。
 ただ、久瀬が勝手に傷ついただけだ。

「久瀬さん、意外と飲みますねぇ」
 宴もたけなわという頃、女性が席を立ったのを見計らうように蔵原が声をかけてきた。
 気付くと、久瀬の前にはもうグラスが何巡もしている。意識はしていなかったが、会の雰囲気を壊さないために気を使っている内に酒が進んでしまったようだ。
「この間の飲み会じゃ、そんなにイケるクチだと思ってなかったのに」
 意外、と蔵原は繰り返して笑い、久瀬の追加注文を促すようにドリンクメニューを手繰り寄せた。
「いや、もう結構いっぱいいっぱいだよ」
 曖昧に笑みを浮かべて固辞した久瀬も、酔いが回っている自分を自覚した。
 しっかりと帰宅できるくらいで押し止めていないと、みっともないことになりそうだ。
「えー、そうですか? ……ああでも、今日久瀬さん来てくれて本当良かった」
 追加注文を無理強いすることなく手元に伏せた蔵原が、それこそ酔った口調で力なくふにゃっと笑う。
 その気が抜けた様子に、久瀬も思わず笑いが零れた。
「思った以上に戦力にならなかったでしょう」
「いやいやそんな。ていうか、今日はそういうのじゃなくてね。ほんと、俺が久瀬さんのプライベートを覗き見たかっただけですから。意外とお酒が飲めるとかー、」
 テーブルに肘をついて指を折る蔵原に、久瀬はその手を収めてくれと首を振った。
 女性が席を立っているからそんなことも言えるのだろうが、もういい加減気を使わせるのは忍びない。久瀬は、この会の賑やかさに逃げ込んできたようなものだ。
「あと、久瀬さんが眼鏡を外したらすっごいイケメンだってこととか」
 ね、と蔵原は大きく身を傾けて久瀬の顔を覗きこんだ。
 反射的に、掌で片目を覆う。わざわざ眼鏡を外してきたのだと思われただろうか。久瀬はそのまま、蔵原の視線を避けるように頬杖をついて苦笑した。
「えー、何で隠しちゃうんですか。可愛いのに」
 酔っ払いが絡んでくるように、蔵原が久瀬の顔を追ってくる。その時、化粧直しから帰ってきた女性の声がして、蔵原は久瀬への追求を止めた。
「あー、じゃそろそろゲームでもはじめよっか。ねえ? 一応、お約束なんでー」
 蔵原が椅子から立ち上がって再び舵を取り始めると、残りの男性陣二名が手を叩いて場を盛り上げた。久瀬も蔵原を仰ぐ。
 と、蔵原がゲームの趣旨を説明し始める前に久瀬のポケットで携帯電話が震えた。
「――あ、ごめん」
 慌ててテーブルを離れながら、携帯電話を取り出す。
 足元がふらついた。
 携帯電話の液晶には、松岡の名前が記されていた。
「久瀬さん、大丈夫ですか?」
 待ちましょうか、と蔵原の声が背中から追ってくる。盛り上がりかけたテーブルの視線が、一斉に久瀬に注がれている。
 久瀬は、着信を続ける携帯電話を握りなおして、躊躇した。
「あ、――いや、いいよ。気にしないで」
 答えると、久瀬は席に戻って携帯電話を鞄にしまいこんだ。
 どんなに鳴っても誰にも気付かれないように、奥深くに。