秘密(4)

「久瀬さん、この間言った飲み会なんですけど、やっぱり無理そうですか?」
 金曜の午後、備品を届けに来た蔵原が久瀬のデスクの傍らにしゃがみこむと、声を潜めた。
 お行儀の良い犬のような仕種に久瀬は手元のファイルから視線を移すと、眉尻を下げて笑った。
 あの日以来、松岡の姿は見ていない。松岡が訪ねてきさえしなければ、久瀬の日常はこんなものだ。
「松岡でも誘ったら?」
 蔵原から視線を戻して、請求書の束を繰る。
 久瀬のような気の利かない地味な男より、松岡が参加した方がどんなにか場は盛り上がるだろう。もし自分が蔵原でもそう思うに違いない。
 蔵原は、久瀬のデスクの足に額を押し付けるように顔を伏せると、ハハ、と短い笑い声を漏らした。また何か、彼らが共通して抱えている楽しい記憶でも思い出したのかもしれない。
 久瀬は胸の奥が疼くような気持ちを覚えて、下唇を噛んだ。
「先輩呼ぶと、先輩のペースに持ち込まれちゃうからなぁ」
 松岡が酒の席でどんな風に盛り上げるのか、久瀬は知らない。蔵原の様子を見る限りそれはひどく楽しいものなのだろうと予想はつく。先輩はない、と首を振りながらもおかしそうにしている蔵原の様子を見れば判る。
「ああ、松岡は合コン荒らしなんだっけ」
 蔵原の調子に合わせながら、久瀬はまるで自分が松岡の友人であるかのように気安く彼の名前を読んでいる自分に自嘲を覚えた。
 実のところ、松岡のことなど何一つ知らないくせに。
 蔵原の方がずっと、よく松岡を知っている。
 酔った松岡の姿も、松岡の女性の好みも、松岡の休日の過ごし方も、何も、久瀬は知らない。
「でもまぁ、それは学生の時の話ですけどね。――先輩、この頃飲み会に誘っても全然来てくれないんですよ」
 笑いを収めた蔵原が、久瀬のデスクの下で首を伸ばすとフロアを見渡しながら声を潜めた。経理部のこんなところでサボっていることがばれていないか、確認するように。
 久瀬も釣られて周囲を見渡すと、週末の定時を控えて社員はそれぞれ気楽に過ごしている様子が見える。
 蔵原がゆっくり腰を上げた。
「入社して暫くの間は、忙しくても顔は出してくれてたんですけど……もうここのところ、ずっと」
 首を捻りながらどことなく不満そうな表情を浮かべた蔵原を、久瀬は思わず仰いだ。
「ずっとって……」
 乾燥した指先から、伝票が捲れ落ちる。
 蔵原は天井に視線を向けて指折り数えると、首を傾けたまま口をへの字に曲げた。
「俺が入社する頃からだから、もう二年くらいになるかなあ」
 書類上に添えるだけになっていた久瀬の指先が、意図せず震えた。
 松岡が久瀬の不正に気付いた頃と符合する。
 たとえば、松岡が蔵原の誘いで飲み会に参加するのが都合のいい女性を探し出すためだったのだとしたら。
 松岡はそれを久瀬に見出すことができたから酒の席は必要なくなったということなのか。
 松岡にとって、久瀬は
「あ、」
 返す言葉をなくした久瀬の傍らで、蔵原が短く声をあげたかと思うと大きな身体を竦めて再び久瀬のデスクの下に身を隠した。
 蔵原の視線の先を振り返ると、松岡がいた。
 怪訝そうに眉を顰めて立っている。外回りの帰りなのか、スーツをしっかりと着込んで。
「蔵原おまえ、なんだその態度は」
 手近なパート社員に領収書の束を押し付けると松岡はその足で久瀬のデスクに歩み寄ってきた。――正確には、わざとらしく隠れた蔵原のもとへ。
 蔵原は笑いながらおびえた素振りを見せると、椅子の下の久瀬の足に手をかけて身を縮めている。
 噂話をしていたからばつが悪いのか、それともこういう戯れ方をする間柄なのか。
 久瀬は蔵原の腕が自分の足に絡みつく前に、反射的に避けてしまった。
 自分の「膜」に触れられることに、嫌悪した。
「お前はこの間から、何を久瀬に纏わりついてんだよ」
 蔵原の腕を避けて久瀬が椅子を立ち上がると、大股に歩み寄ってきた松岡の胸板にぶつかりそうになった。
 慌てて、一歩退く。
 机に後ろ手をついて体を支えた久瀬の肩を松岡が掴んだ。そのまま身を屈め、背後に隠れた蔵原を覗き込む。
「なに隠れてやがる、後ろめたいことでもあるのか」
「ないです、ないです。誰も松岡先輩の悪口なんて言ってませんから」 
 蔵原の笑い声が背後に聞こえた。なんだと、と応じる松岡の楽しげな声も。
 久瀬は、気安く肩にかけられた松岡の手を、払った。
 松岡がこちらを振り向いたのは判ったが、その顔を見ずに、久瀬はデスクを離れていた。
「久瀬さん?」
 背中を蔵原の声が追ってくる。振り向けなかった。
 松岡の姿を、見れなかった。

* * *

 鞄の中で鈍い音が響いて、久瀬は目を覚ました。
 久瀬の様子をおかしく感じたかもしれない蔵原が訪ねてくる前に、急いで退社した久瀬は帰宅するなりベッドに倒れこんで、そのまままどろんでしまったようだった。
 腕を突っ張って身体を引き起こし、テーブルの上に放置した鞄を開く。
 携帯電話の着信を知らせるランプが点灯していた。
 メールが一件、今届いたばかりだ。
 発信者は松岡だった。
 ずるり、とシーツを引き摺り下ろしながらベッドを降りた久瀬はその場で床の上に座り込んだ。
 ――今から行くから。
 松岡のメールは簡素で、久瀬の都合など尋ねようともしない。
 松岡が行くと決めたら久瀬に断る選択権はなく、松岡がこの部屋を訪ねたら、久瀬は戸を開かなければいけない。
 松岡を招き入れたら、自分がどんな風に扱われるのかを知っていても。
 久瀬がそれを望むか望まないかなんて、松岡は知らない。知ろうともしない。
「……、」
 久瀬はテーブルに額を押し付けて、大きく息を吐いた。
 静かな部屋に、自分の呼吸の音しか響かない。あと一時間もすればこの静寂は破られて、松岡の荒い息も響くようになる。久瀬も自分では思ってなかったような甘い声をあげて、松岡がそそのかすままに淫らな行為をねだり、獣のように発情するんだろう。
 そう思うと、久瀬は知らず、自分の肩を抱いた。
 身体の芯が覚えている。松岡が突き上げる熱い楔を、自分の中が掻き乱される戦慄きを。
 もうじきそれが再び呼び起こされて蕩けさせられるのだと思うと、どうしようもなく、心が震える。
 膜を隔ててさえいれば、こんなことを身体の隅々まで刷り込まれるようなこともなかった。なかったはずだ。
 携帯電話を握り締めた手を、久瀬は握り直した。


 服を脱がせろ、と命じたきり、松岡は仁王立ちになって指一本動かそうとしなかった。
 まるで王様気取りの松岡に傅いて、久瀬は松岡のネクタイを解き、ワイシャツのボタンを外した。
 時折、疲れを見せるように松岡の小さな息が漏れると指先が震えるような気がしたが、松岡には気付かれていないようだ。
「お前、何で最近蔵原とつるんでるんだ」
 久瀬がボタンを外し終えたワイシャツから腕を抜いて、松岡が肩を回した。骨が乾いた音をたて、薄くついた筋肉が隆起する。久瀬はそれから目を逸らすと、床の上に膝をついてベルトのバックルに手をかけた。
「別、――……前に、経理と総務が合同で忘年会をして、その時に席が近かっただけ」
 体躯の割に細い松岡の腰のベルトを緩め、スラックスのボタンを外してジッパーを引き降ろす。久瀬は終始視線を伏せたまま、淡々と進めるように努めた。
 ふぅん、と興味のなさそうな松岡の声が頭上に響く。
 松岡は久瀬に興味など微塵もない。ただ自分にとって都合のいい人形の動きを把握していたいだけに過ぎないんだろう。あるいは、友人である蔵原の傍に久瀬の影があるのが気に喰わないのか。
 松岡の足を片足ずつ上げてもらいながらスラックスを落とすと、久瀬は一度松岡の顔を仰いだ。下着も脱がせと言うつもりだろうか。
 久瀬の顔を見下ろした久瀬は、何も言わなかった。肯定という意味だろう。
 久瀬は、松岡の肌にぴったりと張り付いた灰色のボクサーパンツに手をかけて、松岡の肌に爪を引っ掛けてしまわないように留意しながらそっと引き降ろした。
「あいつは無駄に馴れ馴れしいからな」
「……そうだね」
 松岡が蔵原を悪し様に言うのは、それが許される間柄だと言うことだろう。久瀬は、睫を震わせた。
 もう一度松岡の足を上げさせて下着を抜こうとすると、久瀬の頭に松岡の掌が落ちた。
 身体のバランスを支えるためかと思った。
 しかし、両足を取り去った後で、松岡はその手を引き寄せると従順に跪いた久瀬の顔に自分の股間を押し付けた。
「――っ、……!」
 急な所業に久瀬はしたたか眼鏡をぶつけ、顔を顰めた。
 眼鏡に縁取られた向こうで、松岡の男根はまだ、だらりと床を指している。
 しかし、無防備な久瀬の顔が密着するとピクリ、と脈打ったようだ。
 目の前に突きつけられた熱に視線を彷徨わせたあとで、久瀬がそろり、と視線を上げると、松岡は久瀬の顔を見下ろしていた。
「どうした? 咥えろよ」
 さも、それが当然の扱いとでも言いたげな様子で。
 いや、――確かに当然のことなのだろう。松岡が望むのなら。
 久瀬は顎先を上げて唇を丸く開くと、中央を窪ませた舌を差し出した。両手は、床の上で松岡の体温が残った下着を握り締めたまま。
 舌の腹の上に松岡の肉棒を掬いあげて、裏筋を濡らすように舐めとる。松岡の掌はただ久瀬の髪の上に乗せられているだけで、ひどく乱暴に押し付けてくる様子もなかった。
 舌先を窄め、根元まで辿ったものを横様に咥えると、松岡の顔が視界の端に止まった。目蓋を伏せ、久瀬の腔淫に集中するように眉根を寄せている。
 日本人離れした顔立ちで、陰影が深い。体つきだってがっしりしていて、背も高い。その上仕事もできるとなれば、確かに女性は放っておかないだろう。蔵原が「荒らし」だと言う気持ちも判る。
 松岡の低い声で囁かれて、心をざわつかせない女性はいないのじゃないだろうか。
 自身の唾液で濡らした唇を松岡の陰茎に滑らせながら、久瀬はそんなことを考えてふと笑がこみ上げてくるのを感じた。
 そんなことを、性器を舐めさせられながら考えるなんて、どうかしている。
 ――あるいは、そんな女性たちではなく、今松岡の身体に触れているのは自分だと、優越でも感じるつもりだったのだろうか。
 松岡がこうして辱める相手が、久瀬だけとも限らないのに。
 頭を擡げてきた松岡の肉棒の先端へ運んだ唇にカリを含むと、咥内でカリ首の下の括れに舌を押し付けながら、久瀬は床の上の手を松岡の腿にのぼらせた。
 その手を、払われる。
「!」
 驚いて目を瞠ると、松岡が久瀬を見下ろしていた。
 視線があった、と思った瞬間。松岡は掌をあてた髪を不意にわし掴みにして、久瀬の喉を突き上げた。
「んむ、……ッ・ぅ、ン!」
 突然のことに息を詰まらせた久瀬が肩をそよがせても、松岡は手を緩めようとしない。久瀬は思わず松岡の腿に再度手をついて、身を引こうとしたが、頭を拘束されている。
 久瀬の喉を奥まで押し広げた怒張はビク、ビクンと大きく跳ね上がりながら質量を増して、久瀬の口蓋を打った。顔に熱が上がるのが判る。息苦しさを覚えて、久瀬は必死で身を引いた。ばたつかせた足が、ベッドを蹴る。背中にテーブルの角が当たって、痺れが走った。
「しっかり奥までしゃぶれ。――お前はこれが好きだろう?」
 身を屈めて、松岡が甘く囁いた。
 ずり上がった眼鏡のフレームに隠れて、松岡の顔が見えない。ただでさえも曇っていて、視界が明瞭じゃないのに。
「んン――……ッ! ふ、ッ……ぅぐ、ン・ぅ…っ」
 久瀬は大きく唇を開いて、少しでも呼吸を楽にしようと首を逸らすが、それを見計らったように松岡が腰を押し付けてくる。硬い叢に鼻先を擽られながら、久瀬はえづいた。舌を動かして松岡のものを愉しませるどころではない。生理的に込み上げてくる嘔吐感に、咥内を波打たせるだけで。
「ぇ・ぅ……ッ! ぅ、っ……ン、ぅ……!」
 しゃくりあげるように短く息を吸うのが精一杯で、久瀬は眩暈を覚えた。唾液が唇の端から滴り、喉まで伝ってくるのが判る。身を捩って何とか慣れようと努めたが、喉の奥に突き挿さった肉棒はどくどくといきり立つばかりで、久瀬を苦しめる。
「――ッ」
 頭上で、松岡が舌打ちを放った気がした。
 それを確かめる術もないまま、次の瞬間には久瀬の唇から男根が引きずり出された。
「ッ・げほッ……ぅ、ッ……まつ、っか……ごめ……」
 糸を引く唾液を手の甲で拭いながら、噎せた久瀬の髪を掴んだままの松岡が、腕を振るう。
 何が起こったのか一瞬、判らなかった。
 次の瞬間、久瀬は床に顔を打ち付けていた。
 眼鏡が甲高い音をたてて、ベッドの下まで飛んでいく。久瀬は、身を捻って松岡を見上げた。
「お前さ、」
 松岡の表情は、部屋の蛍光灯を背にしていて、暗くてよく見えない。
 松岡の手が無慈悲に伸ばされて、久瀬の下肢を引き起こした。乱暴にベルトを抜き、引き摺り下ろす。待って、と声にしたつもりだったが、久瀬の身体は噎せるばかりで、声にならない。
「何なんだよ。俺とこんなことするのが、何でもないことだとでも思ってるんじゃないのか」
 床の上で久瀬が足をばたつかせると、松岡の掌が久瀬の肌を打った。ひどく大きな音がした気がして、久瀬は首を竦めた。
「違、――何で、そんな、いきなり」
 何か気に触ることでもしたのか。
 久瀬は眉を潜めて身を捩り、松岡の表情を窺い見ようと眼を凝らした。
 いくらなんでも、こんな風に暴力染みた行為を受けたことは今まで、なかった。
 それが、久瀬が松岡の気分を害さないようにしてきたことの成果なのだとしたら、今日だって同じことだ。
 それとも、昼間に逃げ出したことを怒っているのか。
 久瀬は床の上を這うように逃げ出そうと、腕を伸ばした。しかし頼るものも掴めないまま、松岡に下肢を引き上げられる。四つん這いの格好で、上体だけが床に押し付けられて。
「ほら、そんなに好きならくれてやるよ。――好きなんだろう、男のチンポが」
 剥かれるようにして露にされた背後に、久瀬の唾液に濡れた松岡のものが押し付けられた。
「ッ――……! 待っ、松岡……っ・待ってまだ、ッ……!」
 床の上を掻いて、身を捩る。松岡の顔は見えない。ただ背後から、解されてもいない肉孔を無理やり押し入ろうとする熱の塊だけを感じる。
 身が引き裂かれるような痛みが、背筋を這い上がってくる。
 久瀬は、床に額を押し付けて、唇を噛んだ。
「ああ、もうカリ咥え込んでヒクついてるよ。嫌がって見せて男を誘うことでも覚えたのか?」
 乾いた蕾を力任せに押し広げながら、松岡は久瀬の背中に笑い声を浴びせた。
 久瀬の爪先が宙を蹴るほど高く抱えなおして、松岡が腰を弾ませる。体内に塗された松岡の先走りが多くなるほど久瀬の苦痛は和らぐように感じたが、久瀬の目の前は、暗いままだった。
 部屋には、松岡の荒い息だけが上がっていく。
 肉の爆ぜる音も、久瀬にはどこかうつろに覚えた。松岡に揺らされる身体はまさに、都合がいいだけの肉人形に過ぎない。
 程なくして松岡が久瀬の中に精を放つ時、久瀬の薄く開いたままの目に、床の上で割れ落ちた眼鏡が映った。
 きっともう、松岡は覚えていない。
 久瀬に課した命令なんて、松岡にとってはその場限りの口慰みでしかなかったんだろう。
 都合のいい精処理道具に興味もなければ、久瀬が眼鏡をかけていようとかけていまいと、松岡には判らない。
 今まで律儀に眼鏡を外していた久瀬が、馬鹿を見ただけだ。


 久瀬を覆う防御壁を松岡が取り除いてくれたんだなんて、思っていたのが馬鹿みたいだ。