執事と主人

 湯がぐらぐらと煮えている。
 十分に煮え滾るのを待ってからゆっくりと火を消してすぐに熱湯を硝子の器へと注ぎ込む。
 紅茶を淹れる上で急ぐのはこの時だけで、あとは器の中で茶葉が開き、馨しい香りをのぼらせながら熱湯の中で浮き沈みし始めるのを待つだけだ。
 茶器は既に温めてある。
 時間にして三分ほどの間だが、薫り高いダージリンの香りを楽しみながら紅茶が花開いていくのを待つ、この時間が黛にとって至福の時間だった。
 主人は黛が淹れる紅茶以外を紅茶とは認めないが、それは黛にとっても好都合だということだ。
 主人が命じてから紅茶を運んでいくまで、ものの七分あまり。それが黛にとっては主人から解き放たれる自由時間だった。
 あたりに漂う香りが色濃くなり、器の中で茶葉が暴れだす。
 黛は仕方がないと小さく息を吐き、銀のトレイを片腕に構えた。

「お待たせ致しました」
 トレイの上にポットとカップを用意して書斎に戻ると、主人は七分もの間呼吸もしていなかったのではないかと疑いたくなるほど微動だにせず座っていた。
 主人を不躾に観察することなど出来はしないから解らないが、瞬きでさえあまりしているところを見たことがない。
 もしかしたら自分が仕えている主人は陶器で造られた人形なのではないかと疑いたくなることなどいつもの事だ。
 純金で出来たような眩く繊細な髪に、発汗や皮膚呼吸するための毛穴が見当たらない青白い肌。その肌にグレイの影を落とす窪んだ眼窩には硝子玉のような瞳が、髪と同様の金糸に縁取られている。その睫毛がよほど重たいのかほとんど半分垂れ下がっているような瞼は妙に艷やかで、男なのに化粧を施しているのかと思うほどだ。
 とても生きた人間とは思えないほど青白い肌をしているのに唇だけは一滴の血を垂らしたかのように赤く、見る者の視線を絡め取るようだ。
 華奢な體は常に天井から糸で吊るされているかのように姿勢が崩れることなく、まるで荒野に一輪だけ咲いた薔薇の花のような人だ、と思ったものだ。かつては。
「本日はスリランカの農園から取り寄せたダージリンでございます」
 自分で淹れろと言ったわりには黛が戻ってきてもぴくりとも反応しない主人の前に、カップを用意する。
「カップはセーブルのものをご用意致しました」
 フランス製の深い青で焼かれたカップを差し出し、そこへ程よく抽出された紅茶を注ぐ。ふと、立ち上る湯気で主人の前髪が揺れた。
「特別に、当屋敷のメイドの脳漿をよく沸騰させて淹れたもので御座います」
 人間の脳漿の総量はおおよそ一〇〇ml、二人分を使用して余る程度だ。汚れたものを主人に出す訳にはいかない。よく濾して、上澄みだけを使った。蒸気で減ってしまう分もある。それでも上質な弱アルカリ性の水が手に入った。
 カップの八分目ほどまで紅茶を注いでポットを下ろし、コゼを被せる。
 そこまでしてようやく主人が初めて左手を擡げた。
 生きている。それを確認して一歩下がろうとした時、不意に硝子玉のような目がこちらを振り向いた。
「ありがとう」
 柔らかく目を細めた主人が歌うような声で短くそう言って、カップを手に取る。
 黛は小さく頭を下げて、一歩退いた。
「勿体無いお言葉で御座います」
 窓の外には荒涼した景色が広がっている。
 主人はカップから立ち上る香りを少しだけ楽しんだような素振りを見せてから、ゆっくりと口に運んだ。