海賊BL

 自分たちが暮らしているこの星は丸いらしい。
 そんなことは海の男なら誰でも知っている。
 モノスコープを覗き込めば海はどこまでも続いていて、何日も何ヶ月も何年も漂っていたってこの世の涯てなんて見たこともない。
 水平線は緩やかな丸みを帯びていて、これがずっと続いていくんだろうということは今日船に乗り込んできた子供の船乗りにだってわかりそうなものだ。
 水平線には今にも水没してしまいそうな距離まで星が瞬いている。
 その光だって点のようなものだ。あの星からこちらを見たらやはり点のように見えているのだろう。それは、この星が丸いからだ。
「――くぁ……」
 どこまでも凪いでいる海面と雲ひとつない星空をじっと見ているとどうしても睡魔が忍び寄ってきて、アイザックは大きな欠伸を噛み殺しながら見張り台の柵に背中を凭れさせた。
 目的の島まではまだ三千マイルもある。途中で寄港する必要も出てくるだろうし、長旅になりそうだ。
 アイザックはモノスコープを下げて頭上の星を仰いだ。方角も問題ない。星がよく見えるのは良いことだが、風がないのが気にかかる。マストに張った帆は静かに垂れ下がったままで、周囲の波の音もほとんど聞こえない。
 静かな夜だ。
 船が進まないのは厄介だが、この調子なら他の船も同じだということだ。
 もう一度スコープで周囲を見渡す。
 他の船の影はどこまでも見かけない。
 今夜の見張りは楽なものになりそうだった。
 凭れた柵に後ろ手をつき、背中に垂れ下がった髪の先を揺らしながら小さく口遊む。どこかの港の酒場で聞いた流行歌だ。寝静まった他の船員たちを起こしてしまわないように静かに鼻歌を歌いながら視線を伏せると、楽しかった酒場の様子が昨日のことのように思い出せる。
 陸で羽目を外すのは誰だって楽しい。酒は無尽蔵に出てくるし、見張りも必要ない。開放感があるし、海賊旗をはためかせて着岸したそばから英雄のような扱いをされることもある。
 船員たちもみんな一様に安堵して伸び伸びと遊んでいるし、休暇が好きじゃない人間なんていない。
 陸のベッドは温かくて柔らかくて安心するし、ただ一つ難を挙げるとすれば――
「っ!」
 アイザックが過去の燻りを思い出して胸を疼かせそうになった時、背後で大きな破裂音がした。振り返ると、右舷から煙が上っている。
「アイザックさん!」
 船が揺れるほどの衝撃ではなかったが、すぐさま甲板に船員が飛び出してきた。結局のところ、彼らも夜は熟睡できていないのだ。何より硬いベッドや些細な波でも揺れてしまうハンモックでは疲れた体を休めるのには不十分だし――何より、海に出てきてしまえば何が起こるかわからない。今、この瞬間のように。
「見張りを」
 アイザックは腰にモノスコープを差して見張り台を抜け出ると、縄梯子を滑るように降りた。入れ替わるように若い船乗りが見張り台へ上がっていく。
「周囲に船影はない」
 甲板へ降りるなり駆け寄ってきたイーサンに短く告げると、煙を上らせる右舷を窺った。
 まだ細々とした尾を引いてはいるが、煙が増える様子はない。船が燃えているというわけではないようだ。
 周囲に船がない以上、船室に何かが仕掛けられていたと考えるのが妥当だ。
「様子を見てきますか」
 イーサンが緊張した面持ちで尋ねる。煙を辿ればどこに仕掛けがあるかは一目瞭然だ。
 アイザックと同じ程の時間をこの船の上で過ごしてきたイーサンは体躯が大きく、腕もアイザックの太腿以上に太い立派なものだ。
 何者かが忍び込んでいる可能性を考慮すればイーサンに行かせるか、あるいは一緒に向かうのが安心なのかも知れない。しかし。
「――いや、……俺が一人で行く」
 潮風に混じって漂ってくる煙の香りに鼻を鳴らしたアイザックは眉を顰めると、イーサンを抑えて船室へと向かった。



「キャプテン!」
 右舷船尾側。煙の発生源は他でもない、この海賊船ウルフヘズナルの船長の私室だ。
 アイザックがカットラスを構えて木の扉を勢いよく開くと、室内にはランプが煌々と灯っていた。
 しかし、当の船長の姿はない。
「……っ」
 左手に構えたカットラスを握り直して、慎重に室内を見回す。
 天井から吊るされたランプは大きく揺れている。これは船の揺れのせいじゃない。何者かが明かりを消そうとして間に合わなかったと見るのが妥当だろう。
 息を詰めて、部屋に歩み入る。
 人の気配は感じられない。
 床板がギッと短く軋む音を立てて、波音の合間に消えた。
「……キャプテン」
 念の為、抑えた声でもう一度呼びかける。返事はない。
 問題は、破裂音とともに煙を上らせたものの正体だ。それはすぐに判明した。壁に打ち付けられた机の上に、無防備に置かれたままになっている。
 もう一度鼻を鳴らして、アイザックは机に歩み寄った。
 火薬の香りはしない。
 煙はもうほとんど落ち着いていて、静かなものだ。
 カットラスを右手に持ち替えて、左手をそれに伸ばす。ゆっくりと。
「――まだ触っちゃ駄目だ」
「!」
 背後から声を掛けられた瞬間、アイザックはその方向へ刃を向けた。
 その先には、他でもないキャプテンの姿があった。
「それはまだ熱い。触ったらお前の綺麗な指が火傷してしまう」
 褐色の肌に金色の瞳。
 アイザックのカットラスを向けられても両手を緩く掲げてみせるだけで、緊張した素振りも見せないキャプテンは悪びれた様子もない。
「……こんなことだろうと思いましたよ」
 喉元に突きつけた刃を下ろしもしないアイザックが苦々しい声を絞り出すと、短い笑い声が返ってきた。
「ご名答」
 陽に焼けて赤茶けた髪を揺らして快活に笑ったキャプテンは掲げていた手で拍手をして、ついと距離を寄せてきた。カットラスを向けているというのに、気にもしない。アイザックが自分を傷つけることなど、海の水が全て干上がってしまうのとくらい有り得ないと信じているように。
「また蒸気の実験ですか?」
「ああ」
 仕方なくカットラスを下ろして腰の鞘に収めた時には、既に大きな掌がアイザックの肩を掴んでいた。
 我が物顔で引き寄せられて、首筋に鼻を擦り寄せられる。
 こんなこともあるだろうと部屋の扉は閉めてきたものの、何事もなかったと甲板にいる船員たちに告げてこなければならない。イーサンも今頃気を揉んでいることだろう。
「失敗したなら隠れる前に報告して下さい」
 机の上で燻っているのはキャプテンが個人的に研究している蒸気で動く玩具らしく、先日の寄稿で大量に石炭を買い集めていたのを見てこんな気はしていた。
 甲板まで漂ってきた煙に香りがないことを確認すれば、まあこんなところだろう。
 とはいえ船長の手遊びで船に穴でも開けられたらたまらない。彼の言うことを信じればこの蒸気は船を動かす動力にもなり得るということなのだから、いつか大事故にもなりかねない。
 例えば、彼の腕が吹き飛ばされるとか。
 ちょっと想像しただけでもゾッとする。
「怒ってるのか?」
 アイザックの腰に滑り下ろされた手を確かめるようにぐっと掴むと、意外そうな顔を浮かべたキャプテンが顔を覗き込んできた。
 火傷の痕こそあるものの、ざらついた掌は無事なままだ。
 安堵の息を小さく吐き出してから、アイザックはふんと鼻を鳴らして掴んだ手に爪を立てて腰から引き剥がした。
「当然です」
「悪かったって」
 謝罪が軽い。顔にはしまりがなくなっているし、甘えたように目尻を下げて笑いながらアイザックの頬に唇を寄せてくる彼に、思わず絆されそうになる――が。
「キャプテンが無事なことを確認したので、戻ります」
 露骨に大きな溜息を吐いて、掴んだ手をぽいと放り投げる。擦り寄せられた唇からも顔を逸らすと、視界の端でキャプテンが大袈裟に肩を竦めたのが見えた。
 まるで自分が仕方ないやつだとでも言われているかのようだ。
「相変わらず素直になれないやつだな」
 踵を返そうとした矢先に長い腕が迫ってきて、背後から抱き竦められる。まるで巨大な影が覆いかぶさってくるかのようで、思わず心臓が跳ねた。
「他のクルーが心配しているんです。報告しなければ」
 動揺を悟られないように努めて冷静な声で言って腕を振り払おうとしても、今度は簡単に引き剥がすことが出来ない。胸の前で交差された腕が余って、自分の体の貧弱さを思い知らされるようだ。
「じゃあ、俺もヤツらを騒がせた詫びをしに行こうか」
 そう言いながら、とても甲板へ出ようとしているとは思えない。
 アイザックを引き止めた腕は緩む気配がないし、そのまま部屋を出ていこうとする様子もない。背後から耳朶に寄せられた口振りは蕩けるように甘い囁きで、まるでアイザックのために詫びてくれようとしているかのようだ。
 そもそも彼が引き起こした騒ぎだというのに。
「結構です。キャプテンはもう休んで下さい」
「では、お前はいつここへ戻ってくる?」
 胸の前に回された掌が、ゆっくりと服の上を撫でる。
 それは素肌を撫でるあのざらついて熱い感触を思い出させるのには十分で、アイザックは自分の体が粟立っていくのを自覚して唇を噛んだ。
「……っ」
 黙っていれば、躾の悪い手は服の上から勝手知ったるアイザックの胸の突起を探し当てて先端を掠めるように撫でてこようとする。アイザックは舌の付け根まで出かかった短い声を飲み下して、悪戯な手を掴んだ。
「今夜は見張りなので、戻りません」
 明日の晩は知れない。
 そういうつもりではなかったけれど言外にそう告げてしまったような気がして気恥ずかしさで汗が滲んでくる。
「そうか。……仕方がないな」
 耳元に寄せられた唇が切ない溜息を吐き出す。
 ただそれだけでも背筋を震わせてしまいそうになって、アイザックは首を竦めた。
 悪戯を仕掛けていた手が離れ、アイザックをやんわりと締め付けていた腕が緩む。安堵するのと同時に、どうしようもなく苦い気持ちが胸を突き上げてきた。
 何もこれが最後の夜でもない。
 明日の朝日が上って一日が始まればまた顔を合わせるし、この船が沈まない限りはそんな毎日が続いていく。今夜どうしても一緒に過ごさなければいけないわけでも、過ごしたいと思っていたわけでもないのに。彼が不用意に近付いてきたりなんてするから。
 やはり、イーサンに様子を見に来させればよかっただろうか。
 そうは思うものの、きっとまた同じようなことがあれば自分で訪ねてしまうだろう。この人の部屋に入る人間は、自分だけでいい。
「見張り台でお前を抱くっていうのも悪くないかも知れない」
 さあ行こう、とアイザックの手を握った男の顔は極めて真面目なものだ。
「は?」
 反射的に足を突っ張って、決して一緒に部屋を出まいとキャプテンの顔を睨みつける。
 アイザックを振り返った表情はどうかしたかとでも言わんばかりだ。どうもこうもない。
「見張り台でそんなことするわけないじゃないですか」
 船の上で最も目立つ場所で情事に及ぶなんて想像しただけで血の気が引くようだし、見張り台は一人分の狭さしかない。支えている柱だってそんなに丈夫な方ではないし、彼がいつもの調子で乱暴に打ち付けてきたりしたらひどく揺れてしまうだろう――そこまで想像して、アイザックは血ののぼった顔を伏せた。
「仕方がないだろう、お前が見張りを他の人間に代わってもらわないならそこでするしかない」
「今晩じゃなくてもいいでしょう!」
 引かれた腕を引き返して、思わず声を荒げる。
 きっと彼の金色の目に映っている自分の顔はみっともないくらいに赤くなってしまっているだろうということを覚悟しながら再びその甘い顔を睨みつけると、ふと、双眸を細めて笑われた。
 まさか、からかわれたのだろうか。
 喉を鳴らして文句の一つでも言ってやろうかと口を開いた瞬間、噛み付くようなキスで唇を塞がれた。
「……!」
 分厚い胸を突き飛ばそうとしてもびくともしない。それどころかまた腰に腕を回されて抱き寄せられ、口いっぱいに熱い舌が滑り込んでくる。
「んぅ……っん、ぁ、っ……ん、ん――!」
 窮屈になった胸の前から腕を逃して筋肉質な背中を拳で思い切り殴りつけても、歯列を這い回る舌は止まる様子もない。口内で逃げる舌を絡め取られてじゅるじゅると音を立てながら唾液を啜り上げられると頭がぼうっとしてきて、体から力が抜けていくようだ。
「……さあ、このまま俺の部屋で抱かれるのと見張り台の上で他のヤツらに見られながら抱かれるのと、どちらが良い?」
 どちらにせよ、彼の腕から逃げるという選択肢はないようだ。
 彼の味しかしなくなってしまった唇を噛んでアイザックが目の前の顔を睨みつけると、うん?と子供をあやすかのような甘い声で促される。
 今夜は波の静かな夜だ。
 あまりベッドを軋ませることだけはしないで下さいと言えば、彼のことだから余計に激しくアイザックを抽挿するだろう。
 所詮何を言っても無駄なのだ。
 港の酒場で陸の女にこの腕を触られるよりはよほど良いけれど。
「心配するな」
 まるで胸の内を見透かされたような言葉にはっと息を呑んで、肩を強張らせる。
 陸で彼にまとわりつく女を見ては胸を締め付けられるような気持ちになっていたことも知っていたのだろうか。――と、思ったけれど。
 アイザックの体を硬いベッドに突き倒したキャプテンは不敵に笑ってのしかかってきた。
「ちゃあんと明日も明後日も抱いてやるから」
「……っ! そういうことじゃありません!」
 ある意味で見透かされていたのは確かだったようだ。かっと顔が熱くなってきて、眩暈までしてくる。
 それにしたって毎晩抱いて欲しいと望んだわけじゃない。
 そんなに毎晩していたら体が保たないし、見張りの晩もできない。
 一体何のために自分がこの船に乗っていると思ってるのかと説教をしてやろうとしたのだけれど、彼は上機嫌そうにさっさとアイザックの服をたくし上げている。
 ここで折れてしまうから、彼がいつまでも態度を改めないのだけれど。
「……聞いてるんですか、ジョシュア」
 それでも、彼の名前を呼ぶことが合図になるということはわかっていてアイザックは呆れた声をあげながらベッドに身を任せた。
 ベッドの脇にくり抜かれた丸い窓から、星の瞬きが見えた。