刑事とヤクザ
「よう」
ノックもなく不躾な声とともに扉が開かれたかと思うと、熊のような巨体がこちらを覗き込んでいた。
匂坂はノートパソコンで書類を作っていた手を止めて視線だけ入り口に向けると、その来訪者の顔だけを確認して再び作業を再開させた。
「おい、無視すんなよ」
熊のような――といってもその大きな体は筋肉質なだけで、長身のせいで威圧感こそあるものの決して肥っているというわけではないのだけれど、とにかく存在感のある男だ。
人間が一人入ってきただけで、室内の空気が外に押し出された気さえする。
「何かご用ですか?」
キーボードを打つ手を止めずに冷ややかに応えると、男が大袈裟に首を竦めたのが気配だけでわかった。
「相変わらずつれねぇなあ」
「多忙なもので。ご用件はその場でどうぞ」
人の出払った室内で匂坂のデスクに真っ直ぐ向かってこようとする男の足をピタリと押し止めると、意外にも男はそれに従った。
どこの誰が見ても第一印象は胡散臭く、小汚いならず者といったなりをしている割に、こういうところが妙に律儀な男だ。
他人の領域に勝手に侵入しているという意識はあるのだろう。
「用ってほどでもねえんだけど……」
おどけた様子で両手を小さく掲げて見せていた男が、匂坂がそれを一瞥もしないのを知ると所在なさげにゆるゆると下ろして平らな顎の無精髭をザラリと撫でた。
くたびれたシャツは、洗濯こそしているのだろうけれどアイロンもろくにかけていないせいで皺だらけになっている。それをだらしがないと眉を顰めれば「じゃあアイロンかけに来てくれ」と言われるのだろうから指摘する筋合いはない。
「朝方、騒ぎがあっただろ? アッチの飲み屋街で」
不意に低くなった男の声が急に近くなった気がして、匂坂は手を止めた。
男が近付いてきたわけじゃない。男の声はそういう事が往々にしてあった。距離感のわからなくなる妙な技術でも身に着けているのかも知れない。
軽口を叩いている時の男の声と、ふと垣間見せる本気の声。
背筋を這うようなしっとりとした声が紡がれると、それはまるで耳元で囁かれているような錯覚を覚えることがあった。
「――ええ、それが何か?」
動揺を悟られないように匂坂が鼻の上の眼鏡を押し上げると、視界の端で男がこちらに距離を詰めてくるのがわかった。
確かに未明、繁華街で小さな諍いがあったと聞いている。クラブのボーイと客が揉めたという程度の些細な話だ。
――表向きは。
実際のところ、クラブの経営者は匂坂もこのところ動向を気にしている暴力団組織、揉めた客というのは最近この街で幅を利かせている半グレ集団のナンバー2と噂されている男だ。
近所の派出所から巡回していた警官がすぐに駆けつけて、諍いは穏便に解決した。
当事者が誰だろうと、酔った上での揉め事なんて珍しい話じゃない。男がそれを把握していたことに驚きを隠せないほどには。
それこそこの男が匂坂のところまで訪ねてくるようなことじゃない。
「何か、じゃねえだろ。お前が無事かどうか確認しに来た」
匂坂が押し留めた僅かな距離など一歩で詰めて、男のざらついた手が頬に伸びてくる。
その指に触れられる前にそっと手の甲で払うと、匂坂は怜悧な目で男を見上げた。
「ご覧の通り、私は何も。昨夜からずっと仕事をしていて、そんな小さな揉め事は報告を耳にしただけです」
殴り合いにはなったようだが、警官が怪我をしたでもなく、当事者も病院に担ぎ込まれてはいない。
一体どんな尾ひれや背びれがついて男の耳に届いたのか知らないが、血の流れようもない事件だったはずだ。無論匂坂には何の関係もない。昨日の昼から着ているスーツには汗一つ滲んではないない。
「ならいいけどな」
拒絶された手を引っ込めた男が煙草臭い息を吐き出して頭を掻いた。
触れられてもいないのに、男が触れようとした頬に熱を感じるようだ。
あまり、この男の近くにはいたくない。存在自体が暑苦しくてたまらなくなる時がある。
ただでさえこちらは徹夜明けだ。早く仕事を終わらせて家に帰りたい。
「お気遣いありがとうございました。ではどうぞお引取り下さい」
「そう言うなって。茶の一杯くらい出してくれたって良いだろ? 知らない仲じゃあるまいし」
呆れたような口調で言われて、匂坂は思わず乾いた笑いを漏らした。
昔から、感情表現が乏しいと言われ続けてきた。匂坂にできることといえば嘲笑するくらいだ。血の気の薄い顔色や奥二重の細い目、薄い唇などの容姿と相俟ってそれは人に不快感を与えるには十分だったようで、気の合う友人もろくにいないままこの年齢になってしまった。
こんな匂坂につきまとってくるのなんてこの男くらいのものだ。
とはいえそれも、打算なしというわけじゃない。むしろ打算がなければ匂坂など構わないだろう。
「喉が渇いたならご自分のシマに戻られては? こんなところに出入りしているところをご同輩に見られたら困るのは貴方でしょう」
ほとんど人気がない時間帯とはいえ、この男が匂坂のいる部屋まで真っ直ぐ入ってこられたというのも問題だ。もう少し警戒してもいいものだが。
「まあ、困る。確かにな」
大きな仕草で腕を組んだ男は、その薄汚れた風体に似つかわしくないほどあどけない様子で大きく肯いた。
ともすればいざという時はその鋭い眼光だけで対峙したやくざ者を怯ませてしまうくらい恐ろしい顔を見せるくせに、反面、拍子抜けするくらい子供っぽく振る舞うこともあるから、この男は得体が知れない。
この男との付き合いももう一年近くになる。もう慣れても良い頃だけれど、未だにふとしたことで肩透かしを食らってはペースが乱されるような変な気分だ。
「ただ、こうでもしなきゃお前に会えないからな」
まただ。
妙に声が近付いたような気がして匂坂が眼鏡の下の目を瞠ると、男の手が匂坂の輪郭に触れていた。
あっと声をあげる間もなく顎を掬い上げられて、男の顔を仰ぐ。
「会いたいと言ってお前が俺の家まで来てくれるなら、俺も危ない橋を渡らなくて済むんだがな」
「貴方の家を訪ねることも私にとっては危ない橋だと思いますが」
同じことだ。
行き先が職場か自宅かだけの違いで。
尤も、お互いの職場には基本人が詰めているはずだから難易度は上がるかも知れないが――自宅を行き来する仲と知れることのほうが致命的という気もする。
「違いねえな!」
顎先を摘み上げられても怯まずに冷たく見返した匂坂に何故だか機嫌を良くしたように男が大きく口を開けて笑う。
本当に、匂坂とは正反対なほどころころと表情を変える男だ。だからつい、視線を奪われそうになる。眼鏡のグラス一枚隔てていても尚、抗えない。
「……じゃあ今度は、ホテルに呼び出すか」
男の声が艶を帯びて、近付いてくる。
視線を外した匂坂の眼鏡を取り上げた男が身を屈めて顔を寄せてくると、匂坂は睫毛を震わせながら視線を伏せた。
「大して変わらないと思いますが」
時間をずらして別々に入り、出る時も時間をずらせば顔見知りに目撃されることはないかも知れない。
とはいえ、ラブホテルは裏社会の人間の管轄だ。匿名性が高いとはいえ、同業者の利用に気付かないほどザルというわけでもない。
「……弱ったな。じゃあ次は、どこで会う?」
唇の先が触れるほど寄せられた吐息で囁かれると、こちらから貪り付きたくなる。
それを堪えて匂坂はキーボードの上の指をぎゅっと握りしめた。
「さあ。次があるともわかりませんしね」
お互い、明日が必ずやって来るかどうかなんてわからない。だからこそ逢瀬のたびに体を重ねれば肌が焼け付くようなセックスをして精も根も枯れ果てるまで獣のように貪り合う。
そこに何の種も残さない不毛な行為だとわかっていて、だからこそ安心しているし、だからこそ渇望するのだろう。
匂坂がこの男とどんなに情交を重ねても何にもならない。
人目を憚り、証拠も残さず、どちらかが死ねば自分だけが抱えていく思いが残るだけだ。
「じゃあ、ここでヤっちまうか」
啄むようなキスに雄の匂いをプンプンさせた男が掠れた声で囁くと、匂坂は伏せていた目を片方だけ薄く開いて男を見遣って笑った。
「最中に誰か戻ってきたら大騒ぎになりますよ」
男だって本気で言ってるわけじゃないのはわかっていて、それでもそんな冗談を言われたら冷え切った体に熱が灯るようだ。
「……それでなくても貴方はしつこいんですから」
「お前がそれ言うか? もっともっとって啜り泣きながら縋り付いてくるくせに」
何度も唇を啄まれるたびに舌先を舐られたがって喉が震えてしまう。男だってそれがわかっているくせに決して唇を開こうとしないのは、唾液を交わしてしまえばお互い歯止めが効かなくなることを知っているからだ。
子供のようなキスを繰り返しながら息が熱を帯びていく。
「縋り付いてなんていませんよ、人聞きの悪い」
これ以上すれば焦れったさが溢れ出して男の首に腕を回して乱暴に引き寄せ、ヤニ臭い口内に自分から舌をねじ込んでしまう。匂坂が先に顔を背けて男の肩を押し遣ろうとすると、その手をぐっと掴まれた。
匂坂が啜り泣いても哀願しても許してくれない力強さでベッドに縫い付け、あるいは指の跡が残るほど強く腰を掴んで離さない、男の手だ。
ぎくりとして匂坂がもう一度視線を戻すと、男も咄嗟にしてしまったのだろう、逡巡しているのがわかった。
こういうところが、律儀な男だ。
「離して下さい。セックスしていなくたって、私をこうして拘束しているだけで大問題に発展しかねませんよ。……刑事さん」
くたびれた男のスーツのポケットには、今だってしっかりと警察手帳が入っているはずだ。
それを失くすリスクを負ってまで情欲に溺れたいかと言われると、とてもそうとは思えない。男が刑事だからこそ匂坂が欲情していることくらい、男だってお見通しだろう。
「……仕方ねえ」
苦い顔をして屈めていた身を起こした男が、大きく溜息を吐く。その唇が濡れている。やはり、一度噛み付くように貪っておけばよかったと後悔して、それを押し隠すように匂坂は視線を伏せた。
「でもまあ、俺がその気になればお前をふん捕まえることなんて簡単なんだからな。そうされたくなかったらさっさと抱かれに来い」
お預けを食らった犬のように男の鼻には皺が寄っている。への字に曲げられた口が可笑しくて、匂坂は取り上げられた眼鏡をかけ直しながら、思わず噴き出した。
「留置所で私を抱くつもりですか?」
その想像も倒錯的で悪くない。
もちろん実際に男がそんなことしないのはわかっているけれど。
「まさか」
男が片眉を跳ね上げたその時、事務所の外に車が止まった音が微かに聞こえてきた。
未明の揉め事について調べに回っていた組員たちが帰ってきたのだろう。彼らから実際に何が起こっていて、これからどんな抗争に発展しそうか聞き取りを行えば匂坂もようやく家に帰ることができる。
男がこの時間に匂坂の事務所にいるということは、男は今日は夜勤なのだろう。あんなことがあった後だ。四課の刑事はこれから暫くの間見回りが続くに違いない。
だとしたら夜勤を終えた男が家に戻るのは朝方か。
カタギの人間が仕事している昼日中にカーテンを締め切った男の部屋で汁塗れになった体を貪り合うことを想像すると、身震いするようだ。
組員たちが匂坂の詰めている事務所まで上がってくるまで、あと数分。
男もそれに気付いているんだろう、背後を気にして扉をちらりと一瞥してから、もう一度身を屈めて――匂坂の耳元へ唇を寄せた。
「お前を捕まえたら、俺の家に監禁して一歩も出しゃしねえ。毎日嫌ってほど可愛がってやるよ」
噎せ返るような雄の匂いのする声を直接耳孔に注ぎ込まれて、匂坂の肌が粟立つ。思わず喉がゴクリと鳴ったのに、男も気付いただろう。
「――どちらがやくざ者か、わかったものじゃありませんね」
抗いようもなく弛緩した唇は、笑みを浮かべたように見えたかもしれない。
男は双眸を細めたきり冗談だとも言わずに身を起こすと、さっきまでの執着が嘘のようにあっさりと踵を返してしまう。仕方のないことだ。組員たちの足音はすぐ階下まで迫ってきている。
「じゃあ、またな」
男が肩越しに手を掲げて足早に事務所を去っていく。
おそらく数時間後には、匂坂はあの手に縋り付いているのだ。