軍人BL(1)

「蘭大尉殿」
 執務室の扉の前で呼び止められ、足を止めた。
 少しざらついた声に振り返ると、そこには敬礼姿で直立した儀同の姿があった。
 儀同は若くして准士官の地位に上り詰めた有望株と言われている。影では家柄がどうとか賄賂がどうのと噂されているらしいが、恐らくはそれ以上に血生臭いことに手を染めて、ここまで登ってきたのだろう。
 儀同に上昇志向があるのかどうか、本当のところは知らない。
 少なくとも蘭が知る限り、他の兵や下士官が抱くような出世欲と儀同の欲は質が違う。
 過去に一度だけ、儀同の「仕事」を見たことがある。遭遇してしまった、と形容したほうが正しい。
 夥しい量の血液の海の中で、儀同は蘭の存在に気付くと今と同じように背筋を伸ばして、屹立した。一分と違わない角度で敬礼し、あどけなささえ感じるような微笑みまで浮かべて見せた。
 儀同はそういう男だ。
 蘭は一度止めた足を再び扉へ向け、黙ったまま執務室の扉を開いた。
 入れ、と言わずとも儀同ならば察する。声を掛けてはならない時は蘭の前に影すら現さない男だ。その察しの良さが、将校の面々には気に入らないのだろう。儀同の気味の悪さがよく解っている証拠だ。
「失礼します」
 開け放ったままの蘭の部屋の扉の前で一礼して、儀同は三歩、歩み入って扉を閉めた。
「開けておけ」
「は」
 蘭がそうと言えば、儀同は眉一つ動かさず扉を開く。詰まらない男だ。
「用件を話せ」
 部屋の中ほどで足を止めてチエストに置いたままのブランデーに手を伸ばすと、足音も立てずに儀同が歩み寄ってきた。革張りの椅子を回り込み、蘭の傍で足を揃える。
「蘭大尉殿のご予定を伺いに参りました」
「予定とは何か」
 長刀でも背負っているのかと揶揄いたくなるような直立不動の儀同の鼻柱を折るように聞き返すと、流石の儀同も形の良い眉を微かに震わせたように見えた。
 月灯り以外差してこない薄暗い部屋の中では、あるいはそれも蘭の願望でしかなかったかも知れない。
 しかし、ブランデーに伸ばした手のもう一方に触れた儀同の硬い指先は確かだった。
 中指の先をそっと摘んで、爪の表面をそっと撫でられる感触がある。蘭は決してそれに視線を落とすことなく、儀同の精悍な顔を仰いだ。
「蘭大尉殿の非番のご予定をお聞かせ願います」
 儀同の指先は蘭の爪をそっとなぞるだけだ。中指の腹に添えられた親指は乾いたままで、苛立ちさえ覚える。
 蘭は片手でブランデーを注ぐと、それを掲げて顎先を短く上げた。
「上官の非番の予定を尋ねるとは如何様な理由か」
 これ以上意地の悪いことを言えば、儀同が痺れを切らして退室してしまうかも知れない。そう思いながらも、蘭の指を摘んだままの手が離れる素振りも見せないでいるとつい薄い唇に笑みが浮かんでしまう。
 開け放ったままの執務室の扉からは、廊下を駆け回る内務班の気配が忍び込んでくる。
 あるいはいつ誰が蘭を訪ねてくるものがいないとも知れないこの状況で、背徳的な戦慄きが背筋を粟立てていることも事実だ。
 しかし蘭を見下ろした儀同の眼は変わらず静かで、まるで新月でも覗き込んでいるような気分にさせられる。どちらも視線を逸らすことはない。これ以上交わす言葉もない。ただ、指先だけが蘭の軍服の傍で弄ばれている。
 このまま夜が明けるまで根比べをしていることも吝かではないが、そうもいかない。執務は山とある。蘭は無論のこと、儀同も。それがどのような執務かは知らないが。
 ただ、この平時化に於いて他の誰よりも血に穢れているだろう儀同の手を蘭は決して振り解くことはできない。
 どれほどの時間が経過したか知らない。
「――終日、宿舎で休む予定だ」
 根負けしたというわけではないが、これ以上こうしていても無駄なだけだと諦めたような振りをして蘭が口を開くと儀同の指先が震えた。
 答えなど解っていたはずだ。
 儀同が求めていたのは答えではなく、赦しだ。その赦しも、蘭が与えるまでもないことだと解った上でこうして訪ねてきたのだ。
 蘭は手に提げたままのブランデーグラスを翻すようにして口の中に熱い液体を放り込むと、もう一度儀同の顔を仰いだ。
 男は、あの血腥い現場でそうしていたようにあどけない笑みを浮かべて蘭を見下ろしていた。