軍人BL(2)

 月の明かりも届かない小さな洋館の地下室。
 腕を伸ばしたら自分の手の先さえも見えないほどの暗闇の中で、鮮血が糸を引く光景だけがはっきりと見えた気がした。
 足元には夥しい血の海。
 見える筈もないものが見える気がしたのは、蘭自身もその匂いをよく知っているからだ。
 とはいえ、この匂いは酷い。いっそ暗闇のおかげで何も見えなかったことが幸いだったかも知れない。
 地下室の広さは、図面で確認した限り八畳ほどのものだった。そこに、一体何人の屍が転がっているのか――想像するだけで、階段の下から一歩も動けなくなった。
 きっと少しでも明かりがあれば、さすがの蘭でも反射的に嘔吐していただろう。
 きっとここにある屍は一つとしてまともな人間の貌をしていない。四肢は勿論のこと、胴は斬り刻まれ、頭部も原形を留めていない。そういう匂いがする。臓物と、脳漿の匂いだ。
 地下室は静かなものだった。
 数刻前までは人々の阿鼻叫喚と断末魔で満ちていたのだろうこの地下室も、今は静寂だけが包んでいる。蘭の耳には、自身の鼓動の音だけが響いている。その静けさに、肌が粟立つ。
 息を詰め、軍刀の柄を握る手に力がこもる。
 冷え切った指先が震えてしまわないように。
 暗がりに鳴っているのは蘭の心音だけだ。
 ――そんな筈はないのに。
 確かにそこに、いるはずだ。
 これだけの屍体の山を作り上げた、張本人が。
 暗闇で姿は見えない。しかし、見えなくても人血が糸を引く光景が匂いでわかるように、そこにいる。
 これだけの人を惨殺しても息も弾ませることなく心音を押し殺して闇に溶け込んでいる――殺人者が。
「――」
 其処にいるのか、と尋ねようとして唇を薄く開いたが、すぐに噤んだ。
 歯の根が鳴ってしまいそうだった。
 怖れる必要はない。この洋館に集まった不穏分子を始末したのは他ならぬ我が軍の秘密特殊部隊の人間だ。鬼でも悪魔でもなければ、猟奇殺人者でもない。ただ職務を全うした軍人でしかない。
 そう自分に言い聞かせても、ただここにこうしているだけで魂が薄く薄く斬り刻まれていくような気配がある。
 階上を捜索している部下を呼ぼうにも、声をあげるどころか後退ることさえできない。乾いた口内に唾を嚥下するだけでも、次の瞬間には命を奪われていそうな想像が容易にできてしまう。
「蘭大尉!」
 その時、蘭を呼ぶ部下の声と共に地下室に通じる階段を駆け下りてくる足音が暗闇に分け入ってきた。
「!」
 咄嗟に、軍刀を引き抜く。
 部下に対してじゃない。暗闇に潜んでいる“怪物”に向かって。
 蘭の手元に鋭い光が閃いた。それは、階段を駆け下りてきた兵卒のカンテラの光を反射したせいだ。
 暗闇に光が差す。
 蘭が切っ先を向けた先、噎せ返るような血の海の真ん中に佇んでいたのは、ただ一人の痩躯な男だった。



*          *          *


 椋鳥の声で目を覚ました。
 頭上の障子を伺うと、まだ月明かりがさしている。
 薄い肌掛けを引き上げると、隣に眠っている体が微かに身動いだ。
 起こしてしまったかと懸念したが、暫し息を詰めていてもそれ以上の反応はない。相変わらず呼吸音さえも聞こえない。
 時折この男は本当に呼吸をしているのか心の臓は動いているのかと確認したくなることがある。どうやら動いているのだということは唇を重ね、自分の中へ熱い肉棒を激しく抽送させればはっきりと知ることができるのだが。
 それでも、行為中以外は止まっているのかもしれない。あるいは意図的に止めることができるという疑いが晴れたわけじゃない。
 あの夜、洋館の地下室で初めて姿を見た時から――この男はまるで物体のようだと感じている。
 あるいは既に自身が屍なのかもしれない。
 蘭は暗がりに乗じて傍らの肌へ手を伸ばすと、上体を起こして儀同の寝顔を覗き込んだ。
 障子越しの月明りにぼんやりと浮かび上がる儀同の寝顔は端正なもので、どこか日本人離れして見える。
 薄い唇の前に掌を翳してみると、微かに湿った吐息が感じられた。その手を下ろして、寝間着の胸へそっと触れてみる。
 静かな脈動が、生暖かい皮膚と骨の下に息衝いていた。
 それは普段感じている儀同の様子からは到底想像もできないほどあどけなく純粋で、まるで幼児を掌の下に感じているような、不思議な気分だ。
 軍隊では寡黙で勤勉な軍人として振る舞い、隊舎でも無駄口を利かない。ただ時折あどけない笑みを見せては儀同の仕事振りを知る人間には怖れられている、そんな研ぎ澄まされた刃物のような男だ。
 それが今は蘭の前で無防備に眠っている。
 蘭の肌にはまだ、数刻前に儀同から乱暴にされた疼きのような余熱が残っていた。ヒリつくような、膿んだ傷のような痛みでもあり、甘美な余韻のようにも感じられる。
 この儀同にも男としての欲があるというのが、何度体を重ねても意外に思える。
 蘭を抱くこの手を一体どれだけの血で汚してきたのだろうかと思うたびに蘭の体は戦慄き、深々と突き入れられた儀同のものを締め上げて悦がってしまう。
 自身の倒錯的な劣情を思い返すと、肉の最奥に刻み付けられた疼きをますます強く意識してしまう。
 まるで蘭を体内から押し潰そうとするかのような儀同の突き上げには、何度寝ても慣れない。猛々しい肉棒に腰をしならせて呻く自分の痴態を、儀同は暗がりに光る双眸でいつも見下ろしている。
 ――人殺しのくせに。
 儀同の胸にそっと爪を立てると、静かな寝息が微かに揺らいだような気がした。そもそも呼吸も聞こえないのに、気のせいかも知れない。
 すっかり眼が冴えてしまった。
 蘭は先刻引き上げたばかりの上掛けを余所へ放って儀同の上に跨った。びくともしない。目を覚ます気配もない。
 ただの人殺しの野犬のくせに、蘭の体を良いように弄んで気分よく眠っている儀同に対して無性に腹が立った。
 今夜、褥に来ることを許可したのは他ならぬ蘭自身なのに。
 痩躯に見える体には不釣り合いに感じられるほど太い頸に手を滑らせる。
 さすがの儀同でも、蘭がこの両腕に体重をかけたら窒息するだろう。儀同が暴れるのが先か、あるいは蘭が頸椎をへし折るのが先か。一瞬で想像して、全身が粟立った。
 興奮している。
 数刻前にあられもない体位で絶頂したばかりの体が熱くなって、寝間着の股ぐらが押し上げられていた。
「――ふ、」
 月灯りだけが差し込む部屋で、弛緩した唇から昏い笑みが漏れる。
 儀同の生死を自分の手にしていると思うと気分が高揚して、たまらない気持ちだった。このままこの頸を締め上げて儀同が目を見開き絶命した瞬間、蘭は再び絶頂するだろうと思った。
 思っていたのに。
 鮮血の香りが、鼻先を擽った。
「!」
 反射的に周囲の気配を探ろうとした蘭の手に、熱が触れた。
 見下ろすと、儀同の眼がこちらを仰いでいた。新月のように暗い眼。血に塗れた、底冷えのする笑み。
 笑っていたのは蘭じゃなかった。
 儀同を手に掛けようとする蘭を見上げていた儀同自身だった。
「何故お止めになるんです」
 あどけない笑みを浮かべた儀同が、暗がりに溶け込むような掠れた声で囁く。蘭の手が頸から離れないように促しさえして。
「戯れだ」
 吐き捨てるように答えて手を振り払うと、儀同の手は拍子抜けするほど呆気なく離れた。
 その代わり、雲が月を隠すように儀同の影が蘭に覆いかぶさってくる。
「大尉に殺されるならば本望なのに」
 月灯りを背にした儀同の顔は影になって、はっきりとは見えない。ただ、その双眸だけが光っている。
 蘭の上にのしかかった儀同は慣れた仕草で股を開かせて体を重ねてくる。その重みに、蘭は形式ばかりの抵抗を見せた。その手も容易く布団の上へ縫い付けられてしまうと、荒い息遣いが聞こえた。これも、どちらのものかはわからない。
「部下を弄するなんて、非道い方だ」
 お前のような部下を持ったつもりはない。
 そう答えようとした蘭の唇は血の匂いがする唇に強引に塞がれて、息も継げなくなったけれど。
 まだ泥濘のように濡れそぼったままだった体内に儀同の熱が押し入ってくるとようやく蘭は安堵したような気持ちを覚えて甘美な息苦しさに瞼を閉じた。