夏合宿(1)

 日が燦燦と輝いている、外の空気の方がよっぽど涼しそうに見える。どんなに日が照っていても、風がある分は幾らかマシだ。
 どうしてこんなに気持ちの良い高地まで来て窓を閉めきったまま練習しなくちゃいけないんだと、理由は判っていても新人の何人かは必ず洩らすことだ。クーラーはない。あるのはただ、汗臭く湿った熱気を掻き回す扇風機だけ。
 何となく格好を付けたくて入部した未経験者の大半が、この夏合宿で止めて行くというのは実感として判りすぎるくらいだ。判ったから、もう勘弁してくれと泣き言を言いたいのはやまやまだし、それすら口に出すのが億劫なくらい疲労している。
 練習中口に出来るのは僅かな水分だけ。アマチュア戦を控えて減量中の先輩方と違って俺達はボクサーになりたいわけでもないし、入部する時だってプロを目指している一軍とそういうわけではないけどという軽い気持ちの二軍と分けてくれるという約束だった筈だ。
 それでも、体が重くなっては良い動きが出来ないという部長の指導の元、汗は流れるだけ流して水分は少しづつしか補給しない、地獄の夏合宿が続いていた。
 同室に入れられた一年の内、一軍のメンバーは別として二人は合宿初日に逃げ出し、三人は昨日の昼食中に逃げ出した。残っているのは俺ともう一人だけだが、そのもう一人もカレンダーに印をつけて合宿の最終日をひたすら耐えて待つというつもりらしい。
 俺はというと、この耐え難い練習に楽しみさえ無かったらもしかしたら初日に逃げ出していたかも知れない。多分逃げ出していただろう。
 合宿が終わっても部活はまだ続くのだ。ここで逃げ出していたら、二学期以降ずっと、ボクシング部の先輩達とは顔を合わせないような学校生活を強いられるのだ。そんなのは絶対に嫌だ。
 甲高いゴングが鳴った。
 先輩同士のスパーが始まったらしい。縄跳びの腕を止めて思わずリングに目を移す。
 赤コーナーに三年の岩崎先輩。アマチュア戦ではボクシング雑誌からも取材が来るほど注目されている、将来有望な選手だ。一方の青コーナーに、白いトランクスを履いているのは二年の鷲見先輩だった。手元の三分時計を止める。リングサイドの部長もスパーに見入っているし、少しくらい自主的に休憩を取ってもばれないだろう。
 スパーはあくまで練習で、岩崎先輩の調子を見るためのものらしく鷲見先輩は小さいジャブ以外殆ど手を出さず得意の足回りで岩崎先輩の視界の外へ逃げる。
 ミドル級の岩崎先輩にとって、スーパーフェザーの鷲見先輩の動きが捉えにくいことは判りきっている。そのためのスパーだと判っているけど、それにしても鷲見先輩の動きは切れが良い。マットを蹴る足音すら聞こえて来ない。
 鷲見先輩が左のジャブを出す。その僅かな脇腹に岩崎先輩が拳を繰り出した。岩崎先輩だって、後輩の見ている前でそうそう右往左往していられない。俺は時計の針に目を走らせた。ゴングまであと数秒。岩崎先輩の右が宙を切る。室内に声が上がった。何時の間にか部員の殆どがリングに釘付けだった。
 一発当たったら鷲見先輩の動きは止まってしまうだろう。岩崎先輩のがっしりした背中に鷲見先輩が回りこんだ。振り向きざま、岩崎先輩の牽制が飛ぶ。
 岩崎先輩だってミドル級の中ではフットワークが軽い方だ。肘を故障して以来トレーナーに徹している部長の体調管理の賜物だろう。
 岩崎先輩の重い拳が鷲見先輩の頬を捕らえた。もう一撃。ゴングが鳴った。
 合宿所内に一斉に吐息が溢れた。皆、知らず息を詰めていたようだ。斯く言う俺も大きく呼吸する。鷲見先輩の頬が気になった。ヘッドギアを付けているから、腫れたり口を切ったりすることはないだろうけど、何せ岩崎先輩のフックをまともに食らったのだ。
 遠く離れたリングの上で鷲見先輩がギアを外す。その表情に心配は要らないようだった。
 リングサイドの部長が手を叩く。今日の練習は終わりという合図だった。
「一年はロープを片付けろ」
 鷲見先輩はスパーを終えた岩崎先輩と談笑していた。俺も一軍を目指せば、いつかあの場所に立てるんだろうか。

 俺がボクシング部に入部したのは他の何でもない、鷲見先輩のためだった。
 高校に入ってまで部活なんかする気もなかったし、県内では数少ないボクシング部をもったうちの学校はボクシングをやりたいが為に入学する生徒が多くて、とても未経験者の入りやすい状況じゃなかった。入るのはテレビに影響を受けて冷やかし目的で入部する奴が大半で、大抵仮入部の時点で辞めていった。
 入学して間もなく、帰宅部なりに内心点を上げようと思って参加した体育祭の実行委員会で、鷲見先輩と出逢った。
 出逢ったと言っても鷲見先輩にとって俺なんかは顔と名前を知る程度、実行委員は殆ど体育会系の部活に入った奴らが中心になっているから、俺みたいに内心点目当ての人間はただそこにいるだけという感じだった。
 鷲見先輩を初めて見た時、一目惚れだと思った。後から先輩がボクシング部だというのを知って驚いたくらい細くて(それまでボクシングなんてごついのばっかりだと思ってたけど、よく考えればライト級以下なんて服着てればヤサ男みたいなもんだ)、温和な顔立ちをしていて、暫く見惚れていた。
 話したいと思い、覚えて欲しいと思い、近付きたいと思い、触れたいと思った。俺の性癖を知る友人には運命だとさえ言った。呆れた様子で一瞥されただけだったけど、彼には判らないのだ。この人、という人に逢ったことがある人間にしか判らない。
 体育祭が終わる頃、俺は迷わずボクシングへの入部を決めていた。結局委員会では近付くチャンスに恵まれなかったし、これきりで先輩との接点を失いたくなかった。
「自分にとっては運命でも、相手にとっては運命なんかじゃないんだぜ?」
 夢中になるだけ痛い目を見るよ、と忠告してくれた友人の言葉にも敢えて耳を塞いだ。そんなことは判ってるんだ。鷲見先輩の運命の相手はきっと、何処かにいる可愛い女なんだろう。でもせめて、せめて顔を覚えてもらって、先輩が卒業した後も繋がりを持てるくらいで良いんだ。
 クラスメイトに物好きだなぁと笑われながら、もう既に幾人も退部届を出した後で一年生の少なくなったボクシング部に入部した。未経験者だと言うと、部長はこいつも直ぐに辞めるんだろうという醒めた目で見たけど俺はその奥でシャドーをしている鷲見先輩を見つめていた。
 実際入部してみると確かに想像を絶する運動量だった。暫くの間朝練の後は授業どころじゃなかったし、家に帰ると食事も咽喉を通らなかった。今考えるとどうせ辞めるなら早く辞めろという一部の先輩のしごきだったのかもしれないけど、俺は辞めなかった。
 ボクシングに憧れて入ったわけじゃないからグローブを付けさせてもらえない不満はなかったし、とにかく鷲見先輩と同じ空間にいられるだけで良かった。
「お前、途中入部の割によく続くな」
 鷲見先輩からそんな声が掛けられたのは夏合宿に入る直前だった。
「体育祭の実行委員にいた奴だろ?」
 まさか覚えてもらっているとは思わなかった俺は、思わず呆けて返事が遅れた。
「瀧沢だっけ?」
 はい、と漸く口から飛び出た返事は上擦って、鷲見先輩は笑った。その肩に手を伸ばしたら殴られるだろうか。そんなことをふと考えて、俺はその時初めて彼に性欲を覚えた。それまでそこに向かわなかったのがおかしいくらい、彼を神聖視していたようだった。
「合宿で根を上げるなよ」
 鷲見先輩の手が俺の肩を小突く。
 心臓が天井まで跳ね上がったように感じた。初めて俺個人に向けられた鷲見先輩の言葉が耳に絡みついて、脳内を侵略して行く。飛び上がった心臓が床に落下して、今死んでも構わないとさえ思った。
 でも俺は生きて、夏の合宿に参加している。鷲見先輩と、もっと距離を縮めたい。その気持ちが俺に、地獄と謳われる合宿も楽しく思えている。