満員電車(1)

 八時十分に始発駅を出る特急は、終点の一個手前の駅まで右側の扉が一回も開かない。それは実に四十分間のことだ。
 僕は朝七時四十分に家を出て、駅に自転車を止めるとその電車に乗る。終点までは乗らない。右側の扉から乗り込んで右側の扉から降りるから、いつもギリギリに乗って、扉の目の前をキープする。
 朝の電車にはルールがある。通勤、通学は毎日同じように繰り返されることだから、名前も人となりも知らないけど顔だけは毎日付き合わせた人たちと今日も逢う。僕が扉を向かって立つと、すぐ脇の座席の端にはいつもの酔っぱらいのおじさんがいる。最初はこの酒の臭いで気持ち悪くなりそうだったけど今となってはもう慣れてしまった。
 おじさんは毎日僕が乗るよりも先にその指定席に座って、既に鼾をかいている。もしかしたらこの駅で乗るんじゃなくて、ここで折り返していくのかも知れない。
 扉に向かって外の景色を眺めていると、眠っている酔っぱらいのおじさんと反対側の隣には新聞を小脇に抱えたサラリーマンが立つ。いつも株式の動きを眺めて険しい顔をしているようだ。
 そして、始発駅から途中の一駅を飛ばして最初に停まる駅に着くと、僕の後ろにはいつの間にか「あの人」が立っている。
 この駅で乗り込むのだとしたら、この満員電車の中で人をかき分けて反対側の扉まで来るのは大変だろうし、始発駅で乗り込むんだと思っていつか待ち伏せしたことがあったけど、見つからなかった。その人はいつの間にか、僕の後ろに滑り込んでくるみたいだった。
 扉の窓から外の景色を眺めていた僕は、その人が後ろに来たことを窓ガラスに反射する世界で知る。今日も来た、と思うと自然と体は強ばって、心臓が痛いくらいに胸を叩いた。

 最初は、気の所為かなと思うほど軽いものだった。これだけ混んでいる車内なんだから、体が触れ合わない方がおかしいし、まして男同士でそんなことある筈がないと思っていた。
 でも女の人みたいに過敏になってるわけでもないような僕が、気の所為かなとまで思うっていうことは、軽く意識する程度には不自然だったんだろう。きっと僕が女だったら、せめてこの人が女性だったら、僕は早い内に理解できていたんだと思う。たとえ理解できたからといって、その時僕がどう対処したかは判らないけれど。
 僕がようやく気の所為じゃないと思い始めたのは彼の手が前に回り込んできた時だった。気の所為かな、と思うようなことが一週間も続いたかなという頃、その掌は確実に明確な目的を持って僕の腰を撫でながら僕の体の前に滑ってきたのだった。
 僕は緊張した。男に生まれて十余年、こんなことがあるとは思ったことがなかったし、だからその対処法も用意していなかった。この人を駅員に突き出せば、この人も恥ずかしいだろうけど僕も恥ずかしい思いをするだろうと思った。男が男に痴漢されるなんて。
 それに僕が立った扉が開くのは四十分も後で、それよりも前に駅で降りようと思ったってこれだけ人がひしめき合っていたら駅に引きずり出すのは難しい。僕の降りる駅で騒ぎを起こしたら、同級生に見られてそれこそ僕がホモ扱いされてしまうんじゃないか。
 一番簡単で有効な解決方法はすぐに判った。今日の所は我慢して、明日からは別の車両に乗るんだ。一週間も、あるいはそれ以上触られていたのに気が付かなかった僕を、きっとこの痴漢は良いカモだと思ったのに違いない。車両を変えることで嫌だと思ってるということが伝われば済むことなんだ。何も今自分を危険に晒してまで事を荒立てる必要はないんだ。
 今日我慢すれば良い、そう思って僕は四十分間を耐えることに決めた。
 僕が拒否しないことを痴漢は判っていた。一週間の積み重ねも彼にそう思わせたのだろうし、実際僕は我慢しようと決めていたので敢えて拒否反応は示さなかった。今日だけの辛抱だ。痴漢行為を拒まない僕の腿を何度も擦るように掌が這った。気になって、どんな手だろうかと見下ろすと案外若そうな手をしていた。指が長くて、節くれだっている。美容師さんの手をもう少し無骨にした感じだなと思った。
 掌は腿の隙間に入った。内股を、足の付け根に向けて撫で上げてくる。手の観察をしていた僕はその動きをまともに見てしまって慌てて目を逸らした。窓ガラスに映る顔。流れていく景色は見えなかった。痴漢ってもっと素知らぬ顔をしているもんなんじゃないのかなと思ったけど、その人は違った。僕の顔を見ていた。ガラス越しに視線が合ってしまった。
 ぞくり、と下半身から這い上ってくる震え。全身が粟立った。悪寒なのか別の物なのかは判らない。逃げ出したいのか怖いのか、僕の足は力が入らなくなってきていた。
 足の付け根を擽るように撫でた手がぎゅっと僕のペニスを掴む。体が思わず弾かれたように震えた。窓に映った視線から目が逸らせない。今どこの駅だろう。幾つ停車駅を過ぎ、あと幾つ残っているのか判らなくなっていた。とにかくこの扉が開いたらすぐに飛び出そうと思った。
 股間を掴んだ掌が僕の物を優しく揉みほぐすように蠢いた。まだ誰にもそんな風に触らせたことのない場所だ。中学の時付き合ってた彼女とは、ヤろうとしたら振られてしまった。まだクラスの奴らには童貞だとか言えなくて、黙っていたけど。
 僕がそれをどういう風に仕舞っているのかを確かめるように、指がペニスの形を探り始めた。指で挟み込まれる度にそこが脈打ってくるのが判る。どんどん形を調べやすくなっているだろう。僕はそんな自分に堪えきれなくなって、顔を俯けた。目を堅く閉じようと思ったのに、それより先に制服のジッパーが下ろされていくのを見てしまった。
「!」
 これ以上は我慢しきれない。僕は肘で相手の体を突っぱねるようにして体を捩った。
 隣の席で眠っているおじさんや、新聞記事に夢中なサラリーマンに気取られないようにしたつもりだったけど、彼らはそんなこと気にも止めてないみたいだった。
 嫌なんだと、口で言わなくても判ってもらえるだろうと思っていた。ジッパーを下げる手に自分の手を当てて制しながら相手の体を振り払った、つもりだった。
 しかし背後に立った痴漢は僕の頭をもう一方の手で掴むと開かない扉に抑え付け、僕の動きを封じた。開いたジッパーから長い指が滑り込んでくる。下着の上を掻き上げて、僕の肉棒が震えるのを楽しんでいるようだった。