満員電車(2)

 暴れれば逃れられたかも知れない。でも大事にしたくなかった。せいぜい何十分と我慢すれば終わることなんだ。女じゃあるまいし、触られてどうなるって問題じゃない。
 僕は眼をつむって耐えた。
 痴漢の指が触手のように僕の欲望に絡みついて、扱き上げる。僕は自分の手でしか扱いたことがなかったから、快楽に引き込まれるように先走りを漏らしてしまった。息が荒くなるのを感じた。頭を付けたガラスを僕の熱い息が曇らせる。それを後ろから痴漢が見て、興奮しているのかと思うと股間が更にびくんびくんと跳ねて、まさぐる手を叩いた。
 カウパー液に濡れた下着を亀頭に塗りつけるように、彼の指が先端で円を描く。僕は胸を上下させて、込み上がってくる声を押し殺した。頭を抑え付けられた躰は、股間を弄られるまま自然と腰を突き出すような体勢をとって男に媚びていた。
 乾いた下着が僕のペニスを起たせ、次第に濡れて登り詰めていく。一人でオナってる時には感じられないような感触と、満員電車特有の人いきれ、周りに感付かれないように声を押し殺す苦しさが僕を激しく興奮させた。
 弱々しく視線を上げると、案の定痴漢の眼が僕を見ている。裸に剥かれて、全身を舐められる方が幾分ましかと思うような錯覚に捕らわれた。知らず振った腰の動きに合わせて彼の手が上下する。
「……イ・っ、……ァ」
 下着が濡れそぼり、陰毛も透けて見えるのを晒したまま僕はイってしまおうとした。男の手にたっぷりとぶちまけたかった。そんなことをしたら痴漢はもっと調子に乗るかもしれないけど、明日からは車両を変えるんだしお互いに良い思いと(男を触って何が楽しいのか僕には判らないけど)面白くない気持ちと半々に共有すれば恨みっこなしだ。
 イク、そう思った。快感は頂上まで駆け抜けて僕は背を反らし、感度も最高点まで沸騰していた。
 その時、
 男の手が離れた。
「……、っ?!」
 頭を抑え付ける手の下から背後を振り返ると、男の笑った唇が寄ってきていた。
「――イきたいんだろう?」
 耳をざらりと掠めていくような低い声。僕は触られもしない肉棒をぴくりと震わせた。
「チンポ触って欲しいんだろう、……イきそうなんだろ?」
 男の声は思った以上に若かった。二十代後半か、せいぜい三十代前半といった感じだ。その声に耳朶を撫でられる度、僕の体はみっともない位に震えた。見るもの聞くもの肌を掠める些細な風にすら感じてしまって、声が漏れそうだった。
 僕は、男の言葉に頷いた。自分の手で擦ればあっけなくイってしまえただろうけど、男のその長い指に精を吐き出したかった。乱暴に弄られたかった。
 車内に、疲れた駅員の声でアナウンスが流れる。次の停車駅を告げる声だ。もう、僕の降車する場所まで来てしまったようだ。あっという間だった。
「イきたきゃ、また明日も同じように此処に立ってるんだ」
 毎日僕の後ろに立ってる男は、僕が此処で電車を降りるのを知っている。僕のペニスを濡らしたいだけ濡らし勃起させたまま、イかせてもくれないでただそう言って、笑った。
 電車がホームに滑り込む。あと一分もしないうちに扉が開いてしまう。男は本当に僕をイかせてくれる気はないようだった。
「……っ」
 赤く、腫れ上がったような感じのする顔を俯かせた僕はびくびくと震えている肉棒を無理やり制服に押し込んだ。駅のトイレに駆け込めば、良いだけの話だ。
 降車扉が開くと、僕は男の顔も見ずにホームへ飛び出した。
 男の指の感触をリアルに覚えている。僕よりも僕の感じるところを知っているような手つきだった。思い出しただけで下着の中が破裂しそうになる。個室に駆け込みたい足取りが、股間の充血にもつれてうまく進めない。
 電車は終点に向かって再び発車した。扉の窓に男の姿は見えなかった。

 翌日、僕はいつもと同じ車両の、いつもと同じ扉からいつもと同じ景色を見ていた。でも、視線こそ外に向けていたけど気が気じゃなかった。次の駅を過ぎたら昨日と同じ痴漢が背後に立つんだろうかと思うと。
 まんまと同じ場所に立っている僕を痴漢はどう思うだろう。ホモだと思うだろうか。昨日よりももっと酷いことをされたらどうしよう。通学電車で痴漢を待ってるなんて周りの人や同級生や親に知れたらどうなるんだろう。……そう思うと、足が震えだした。逃げ出したい。次の駅に着いたら男が来る前に逃げ出してしまいたいと思った。
 何も考えずに興味本位で、或いは安易に快楽を求めに此処に来てしまったけど――何をされるか判ったものじゃないのに。
 電車が始発駅を出、次の停車駅に着いた。僕の立った扉の反対側から人が大量に流れ込んでくる。早く此処を離れなきゃ。当然のように毎日自分が立つ位置にそれぞれのサラリーマン、或いは学生が足を運ぶ。その規律を乱せば他の乗員に迷惑をかけることを知っている。
 僕はそれを掻き分けて別の車両に、せめて扉の前を離れようと足掻いた。あるべき人の流れに逆流しようとすれば人にぶつかる。足を踏まれる。頭上の咳払い。横目に見られる白い視線。
 僕は顔を俯かせながらそれを必死に耐えようとしたけど、車両を変えるまでは辿り着けそうにない。扉から離れよう、一歩でも三歩でも良いから、……そう思って無理矢理肩を押し込んだ人の隙間から、男の顔が覗いた。
「っ、!」
 体が強張る。
 男も僕を見つけたようだった。
 電車がホームを出発するという合図が響き、駅員さんが乗客を体当たりで押し込んだ。車体が揺れる。僕はすし詰めの車内で足元をふらつかせ、人の足を踏まないように手をつくと
 ――結局そこはいつも通りの扉の前だった。
 男が寄ってくる。
 僕は慌てて扉に体を向けた。握った掌が小刻みに震えている。背後に男が立ったのが判った。
「……まさか」
 電車がホームを出た。ゴウン、という鈍い重低音が響く。
「逃げようとした?」
 男はそう言うと前触れもなしに僕の股間に手を伸ばした。痛いくらいに握られれば、逃げることも出来なくなるし、抵抗する気すら失せてくる。