KEPT DOG

 カードタイプの鍵を差し、帰宅した部屋は暗かった。
 冷蔵庫のモーター音が低く響いている他に物音一つない。
 柳沼はリビングのソファに鞄とジャケットを放ってから、部屋の明かりをつけずにバスルームへと向かった。
 眼はまだ暗がりに慣れていなかったが、勝手知ったる我が家だ。躓くこともなく、脱衣所に辿り着いてから電気のスイッチを押した。
 ネクタイの結び目に指を掛け、緩める。癖で小さく揺らした首の後ろに揺れる長髪が埃っぽい気がした。
「モトイ」
 暗い、静かな室内を覗き込みもせずに声を掛けると、柳沼は髪を止めていたゴムを抜いた。
 茅島はモトイの長い髪を切れだの黒く染めなおせだのと口煩く注意しているようだが、柳沼の長髪には特に言及しない。柳沼が髪を切ればモトイもおとなしく髪を切るだろうに。
 或いはモトイの、そういう態度が気にかかるのかもしれないが。
「モトイ、出ておいで」
 柳沼はシャツを袖から抜きながら溜息混じりに繰り返した。
 ようやく室内で、物音がした。衣擦れのような些細な気配。間を置かずに何か大きなものが床に転がったような派手な音が響いたかと思うと、モトイのぎゃあ、という悲鳴が聞こえた。
「柳沼さん、ごめん、カバン落としちゃった」
 ばたばたと騒がしい足音とともに現れたモトイが、バスルームに顔を見せた。
「いいよ」
 柳沼はモトイの悪びれの無い顔を一瞥もせずにスラックスを脱ぎ、下着を洗濯物の籠に入れた。籠の中には今朝脱いだ寝間着が入ったままだった。
「髪を洗いたいんだ。手伝って」
 全裸の柳沼がバスルームのタイルの上へ移動すると、モトイは大きく肯いて後をついてきた。濡れたら厄介そうなジーンズの裾を捲り上げもしない。
 柳沼はバスタブの蛇口を捻りながら、その中に身を沈めた。心地よい疲労が全身を包んでいる。湯に浸かってしまっている内に眠ってしまうかもしれない。それでも、モトイがいれば安心だろう。
 柳沼は大きく息を吐いて、下肢から徐々に溜まっていく湯に疲労を溶かし始めた。
 モトイは未だに、柳沼が空けている部屋の中では膝を抱えて蹲っていることが多いようだ。
 もちろん、柳沼が留守にしている間のモトイの行動の全てを知っているわけではない。時には出かけていて、夜の内ずっと帰ってこないこともある。それを咎めたことはない。
 モトイが柳沼のもとを離れて暮らしたいと言えばそれだけの手当てを出すよとも伝えてある。それでも、モトイは柳沼の傍を離れようとはしなかった。
 そのくせ、柳沼が買い貯めておく食糧を一人で食べようともしない。
 柳沼が酒の席や集会で家を何日も空けるようなことがあれば、モトイはその間少しも食事を摂らなかった。
 自由にしていていいよと言い聞かせても、モトイにとって柳沼がいない間の自分は、息をすることもおこがましいと思っているようだった。
 そう感じるのは柳沼の驕りなのかもしれないが。
 柳沼がバスタブの外に垂らした髪に、モトイが不器用な手つきでお湯を掛け始める。
 水分を含んだ柳沼の細い髪は重みを増し、柳沼は首を逸らせるようにして天井を仰いだ。リラックスして伏せた目蓋の向こう側に、真剣なモトイの顔が想像できる。しかし柳沼は、それを見ようとは思わなかった。
「柳沼さん、今日疲れた?」
 充分に濡らした髪に冷たいシャンプーを塗りつけて、モトイはぎこちない手つきで柳沼の髪を洗い始めた。泡の立つ音がバスルームに響く。
 バスタブに注いだお湯は、身を横たえた柳沼の肩まで到達して湯船を溢れ始めた。柳沼はそれを止めようとも思わなかったし、モトイは柳沼が求めるまで蛇口に触れようとしないだろう。
「うん、そうだね」
 モトイの細い指先が地肌に滑り込んできて、柳沼の凝り固まった頭皮をマッサージするように撫でていく。
 暴力以外、何も出来ない不器用なモトイだが、柳沼の世話をするそのぎこちなさは時に心地良いような気がした。疲れている時ほど、そう感じる。だからきっとそう感じるのは恐らく、錯覚なのだろう。
「お疲れさま」
 モトイが微笑んだような気がした。しかしそれも柳沼は確認しようとしなかった。
 目蓋の裏で想像したことが現実でも現実じゃなくても、柳沼にとってはどうでもいいことだ。
 しかし、次の瞬間柳沼は弛緩した唇に柔らかい感触を受けて片目を開いた。
 暗い影。
 押し付けられたのはモトイの冷たい唇だった。
 頭の上から柳沼の顔に覆いかぶさるようにして唇を押し付けてきたモトイは、しかしすぐに離れて、片目だけを開いた柳沼の顔を覗き込んだ。モトイが着けたままのシャツの胸元が泡だらけになっている。それを洗うのもモトイなのだから気にかけるようなことでもないが。
「欲情した?」
 髪を洗う動作を再開させながら、モトイは屈託のない笑みを浮かべていた。
 柳沼はモトイに冷やされた唇を一度、己の舌で確かめるように舐めた。味がしない。
「欲情?」
 聞き返しながら、また目蓋を落とす。モトイがまたシャワーを出して、柳沼の髪を洗い流そうとしていた。その音に掻き消されるような微かな笑い声が、柳沼の口元から漏れた。
「どうして僕が?」
 今日一日の汚れを包みこんだシャンプーの泡が、モトイの指先から湯に洗い落とされていく。血と埃に塗れたモトイの指先は決して浄化されることはないのに。柳沼の髪は、その汚れた手で清められていく。
 欲情?
 冗談じゃない。
 どこの世界に、飼い犬に欲情する飼い主がいるというのだろう。