LOCK OUT

 神様。
 俺が一目惚れしたあの人は、
 既に他の男のものでした。

*      *      *


「ハイ、これ今月のシノギ」
 茶封筒に入った札束をテーブルの上に放り出した赤毛の男は、応接用ソファの背凭れに腰掛けてガムを噛んでいる。
 菱蔵組は、代紋こそ古いものだが、十文字の代でトップがすげ変わって以来平均年齢の若い烏合の衆と化しているところがある。
 かくいう瀬良自身も他の組から見れば「大して役に立たない堅気崩れ」なのだが。
「遅いな」
 乱雑に放り投げられた茶封筒を一瞥した辻が低く唸るように言うと、赤毛の男が大きく肩を竦めて、溜息とも失笑とも漏れない声を上げた。
「右京が暫くシゴトできなくてさ。ウチの稼ぎ頭がそんなワケだから、ちょっと待ってて、ってハイタニには連絡したはずだけど?」
 黙ってデスクワークに集中していた灰谷を顎で指した赤毛は、傍らに立たせたか細い男――あまりに小さくて、少年のように見える――を乱暴に抱き寄せた。
 右京と呼ばれたその小さい男は、松葉杖をつき、左足はギブスを嵌めている。片腕を吊り、頭にはネットをかぶってほとんど自力では歩けないように見える。現に、赤毛に抱き寄せられてふらふらとおぼつかない足取りで体重を預けてしまった。
 顔色も紙のように白い。唇にさえ血の気がない。
「灰谷」
「確かに左京から連絡はありました」
 辻に降られた灰谷は仕方なくキーボードを打つ手を止めると、椅子を回転させて応接セットの赤毛――左京を振り返った。
「どんな事情があっても待てない、と返事したはずだ」
 十文字は部屋の椅子に座って押し黙っている。眠っているのかと思うほど静かだ。直参の人間が来ている間はその方が平和だし、そのまま起きない方がいいと瀬良でも判った。
「んじゃ、俺たちには飯も食わずに上納金収めろって? そんじょそこらのチームじゃあるまいし、ココはまっとうな暴力団なんだろ? それくらいの融通もきかねえのか」
「暴力団だからだよ」
 そう言って、灰谷がゆっくりと腰を上げた。
 辻は黙って成り行きを見守っている。灰谷に任せようというのだろう。
 左京は灰谷の担当の人間だ。管理している部下が組に迷惑をかけたとなれば、それは灰谷のミスだ。処理も灰谷がしなくてはならないし、その手並みを辻に見せる必要もある。
「俺たちは遊びでやってるんじゃない。これは仕事なんだ。判るな?」
 応接セットに歩み寄りながらゆっくりと優しい声で言い聞かせる灰谷の表情は、瀬良からは見えない。
 見なくても判る。灰谷はいつも、表情などない。笑いもしなければ、怒りの表情も見えない。だから恐ろしいともされている。
 とは言え、瀬良は今までたくさんの灰谷の表情を見てきた。
 灰谷の笑う顔も苦しむ顔も、――恥ずかしがる顔もいやらしく蕩ける表情も、怒る顔も照れる顔も、ひとしきり見てきた。
 それでもまだ、ひとたび灰谷が表情をなくしてしまうとその真意を読めなくなる時がある。
 こんなに一緒に――つきまとって――いるのだから、灰谷の無表情の中から自分だけが読み取れるものがあってもいいと思うのに、それでもだ。
 まるで灰谷の心を塞いでいる扉がいかに分厚いものかということを思い知らされるようで、瀬良は今でも悔しい気持ちになる。
「仕事である以上、決められたことは死んでも守る。それが、この社会のルールだ。それとも、辞めるか?」
 灰谷はテーブルの上に投げ捨てられたような茶封筒を拾い上げると中の札束を取り出して、帯の数だけ数えてポケットにねじ込んだ。
「辞めたいなら止めないよ。元はと言えば、お前たちが頭を下げて入ってきたんだ。俺はお前たちを、雇ってあげてるんだよ」
 背中越しに聞こえる灰谷の声は、微笑んでいるような柔らかで優しい響きを帯びている。しかし表情はピクリとも動いていないのだろう。瀬良から見える左京の表情を見ていれば判る。気味の悪いものでも見るかのように顰められている。
「でもな、払えないもんはしょうがない――」
「払うんだよ」
 有無を言わさぬ穏やかな声で、灰谷が囁く。威圧的な気配などまるでないのに、街中にいる普通の大学生と大差ない物腰で灰谷は左京の――いわゆるガラの悪そうなチンピラを、圧倒している。
 一瞬言葉に詰まった左京が、喉を鳴らしてから右京の肩を強く握り直した。うつむきがちだちだった右京が首を竦め、隣の左京を見た。
「――ッ、人を殺してでもか?」
 左京が卑屈な笑みを口端に浮かべて、灰谷を睨みつけた。
 灰谷の答えは決まっている。
「ああ」
 思った通りだ。瀬良は溜息を吐いて、デスクに肘をついた。
 灰谷にはその若さに似つかわしくない「輝かしい功績」があって、それはいわゆる鉄砲玉とも違う、立派な働きだ。だからこそ、中には灰谷が殺人を犯すことを趣味なのだと勘違いしている人間がいる。
 それを揶揄されても、灰谷の眉一本そよがせることなどできないのに。
「殺してでも金を稼いでくるのか? それとも、自分が死ぬのか?」
 どちらか選べ、と吐き捨てた灰谷の言う事は半分は冗談のつもりだろう。おそらく十文字はそんなふうに部下を持つことを許さない。
 見殺しにするつもりなら、最初から左京に菱蔵の看板を背負わせない。
 多分他の組の人間なら、逆だ。若衆はいればいるほどシノギが楽になるだろうが、看板を背負わせる以上、面汚しや損害を被るような危険のある若衆は積極的に切り捨てるだろう。底辺の構成員なんて使い捨てが基本だと言って憚らない組もある。
 十文字は違う。
 どんなに末端の人間でも家族だと言い張る。瀬良にはそれが面倒で馬鹿馬鹿しく見えることもしばしばあるものの、生死に関わるこういう時には少しばかり、好ましく映らないこともない。
 左京と右京は、元はといえば他の暴力団に殺されかかっていたところを拾った孤児たちだった。今シャバに放り出せば、いつ死体になって帰ってきてもおかしくない。
 灰谷にとって笑えない冗談を振った左京に、灰谷は左京にとっての笑えない冗談を返した、というべきか。
 どんなに灰谷を溺愛する瀬良でもこういう姿はあまり感心できない。もうずっと、何年も前から変わらない。
 瀬良と灰谷は違う。
 灰谷を冷たい人間だとは思わない。ただ、決定的に違うだけだ。
「……その前に右京が死んじまう」
 そう言った左京は、完全に灰谷から視線を逸らしている。まるで負け犬のようだ。
 灰谷の様子は変わらない。
「他の稼ぎ方を覚えるんだな」
 灰谷が言うと、右京が傍らの左京の顔を覗き込んだまま、初めて自分の意思を示すように首を振った。左右に、必死で縋るように。
 それを横目で見た左京が苦笑を漏らした。
「ダメだってさ。コイツ、当たり屋しかできねぇんだ」
 ネットを被った右京の頭を左京が乱暴に撫でると、右京は痛みに顔をしかめた後、頬を上気させた。ギプスで固められて自由のきかない足をもじつかせて、左京に身をすり寄せている。
 彼ら兄弟の主なシノギは、いわゆる当たり屋だ。
 それも、右京にとって趣味と実益を兼ねたものだという話を聞いたことがある。右京は病的なまでのマゾヒストで、自分が事故に遭うたびに性的快感を得ているのだとか――瀬良も、しばらくの間はにわかに信じ難かった。しかし今は承知している。
「だから、右京が当たり屋もできないほど悪化した時だけでも出来ることをだな――」
「何だ、お前ら来てたのか」
 灰谷の説教を割って入ったのは、十文字の呑気な声だった。
「あ、やっぱ寝てたんだ」
 思わず心の声が漏れでたかと驚いた瀬良が口を抑えると、どうやら口走ったのは左京の方だったようだ。
 十文字はうーん、と返事とも呻き声ともつかない声を漏らしながら伸びを一つすると、険しい表情で灰谷と左京のやりとりを眺めていた辻に、コーヒー、と注文した。まるで喫茶店の常連客とマスターだ。
「右京、何だまたボロボロになりやがって」
 滅多に仕事をしているところを見ないデスクの上に身を乗り出した十文字が、顔を赤くした右京を覗き込んだ。右京は黙ってひとつ、コクリと頷く。
 その様子に双眸を細めた十文字が、努めて呑気な口調を崩さずに続けた。
「――お前ら、薬はやってないだろうな?」
 弾かれたように瀬良は十文字を見やって、それから左京を振り返った。
 これだけ満身創痍で、なかなか動けるものではない。どんなにか痛みが快楽だとしても、本能的に動けなくなる限界があるはずだ。
 それでもシノギを収めるために無理をするとしたら――薬物を摂取することを考えても無理はない。
「やってないっすよ」
 むっつりと口を尖らせた左京が答えるより先に、瀬良は灰谷の顔を盗み見た。やはり背を向けられたままで、その顔を窺い知ることはできない。
「とにかく、もう次はないものと思えよ」
 灰谷の後ろ姿をじっと見つめていた瀬良が目を逸らし――仕事をしていた振りに戻るより前に、灰谷が兄弟に踵を返して振り返った。
 灰谷の表情は、瀬良の予想と一ミリとも違わない、いつも見慣れた作り物めいた無表情だった。
 彼らが薬物などやっていようとやってまいと、関係ないとでも言いたげに見える。十文字が起きた瞬間、まるで興味を失ったかのように話を打ち切って、瀬良と視線があっても無視して席に戻ってしまった。
 淡々と、札を数え始める。
「辻、左右の分のオレンジジュースも」
「そんなものはない」
 十文字と辻のいつも通りの呑気な会話が繰り広げられていても、灰谷はもう耳を貸す気がないようだった。

 瀬良が灰谷と初めて出会った時から、灰谷は十文字のものだった。
 十文字はそうと認めないが、灰谷はそう言って憚らなかった。それが仁義であり、忠誠を尽くすということであり、極道という世界なのだと、灰谷は瀬良に言った。
 そこには瀬良の付け入る隙などないように思えた。
 だけど、しばらくそばにいると灰谷は十文字の考え方すべてに賛同しているわけではなく、長く一緒にいればいるほど、二人の考え方の違いは目にみえて開いているように思えた。
 違うからこそ惹かれるのか、それとも、違っていてもなお忠誠を尽くすほど灰谷にとって十文字の存在が大きいのか――
 瀬良は灰谷の冷たい表情を眺めながら、歯噛みするような気持ちを飲み下した。