WAR WITHOUT CODE

 事務所の扉を開くと、水飛沫が舞っていた。
「――いい加減にしてよ」
 目を瞠った瀬良の目の前には、左目の大きな裂傷を水に濡らした辻がむっつりとして座っていた。
 その目の前には、空のコップ。それを握っているのは、ミニスカートから覗いた太股のまぶしい若い女性だった。
「……え?」
 扉を開くとそこは修羅場だった、というべきか。瀬良は一瞬扉を締めて出直そうかと逡巡したが、灰谷も、十文字さえ黙って仕事をしている。
 正しくは、見て見ぬふりをしている。
「興奮するな」
 低く唸るような声で、辻が女を睨みつけるように見た。
「してないわよ。してるように見えるの?」
 辻との間に挟んだテーブルへ身を乗り出した女性は、辻の刺すような視線をものともせず、気丈に言い返す。堅気の女性ではないのだろうか。
 瀬良は扉から続く壁に背中を這わせるようにして室内へ滑り込むと、応接セットの二人から目を逸らさずに自分の机まで向かった。
 女性の年齢は相当若そうだ。瀬良と同じくらいか、もっと若いかもしれない。渋谷や原宿で見かけるような目力の強い化粧をして、キャミソールにジャケット、レースのミニスカートに、生足だった。体つきは華奢ながらも胸は――詰め物をしているかもしれないけど――豊満で、スカートから伸びた足もメリハリがある。
 きっと街を歩いていれば、相当な数の男が振り返るだろう容姿だ。
 水商売の女か。瀬良はものの数秒も必要とせずに判断して、自分の席に着いた。集金してきた金を数え始める。
「…………」
 辻は黙って、スーツの袖口で額を拭った。丁寧に撫で付けた髪が乱れている。
 それにしても、店の女が事務所まで来るなんてことは考えられないし、それも辻に楯突くことなんてまずありえない。それもこの年齢じゃ、ママの地位には程遠いだろう。つい数日前にアルバイトで入店してきました、という顔をしている。
 だとしたら――。
 瀬良は、札の枚数を数えながらちらりと十文字の顔を盗み見た。
 革張りのイスの上で片膝を立てて座った十文字は、肘をついて本を読んでいる。瀬良の位置からは本の詳細は判らなかった。真面目な本なのか、漫画本なのかも。
 ただ、十文字は知らない振りをしている、ということだ。
 辻の――情婦が来ているのに。
 瀬良にはそうとしか思えなかった。辻からしてみたらせいぜいちょっと遊んだ程度の相手かもしれない。しかし、面倒な馬鹿女をひっかけてしまったということだろうか。事務所にまでのうのうと乗り込んでくるだなんてよほどの馬鹿だ。菱蔵組だからまだいいようなものの、他の組の人間にそんな真似をしたら、生きて帰れるかどうか怪しい。
「いい加減放っておいてよ」
 何も言い返さない辻に痺れを切らしたように大きな溜息を吐いて、女はソファに身を沈めた。辻の顔面にぶちまけて空になったグラスをテーブルの端に避けると、灰谷がそれを察したように立ち上がった。
「ごめん、いいよ灰谷さん。今また貰ったらまた事務所汚しちゃいそうだから」
 女は長く伸ばした爪の装飾をキラキラと光らせながら、灰谷に手を掲げた。灰谷は逡巡の後、黙って席に戻る。
 瞬間、瀬良と視線があった。しかし窺うような瀬良の顔つきを無視して顔を伏せてしまった。
「放っておけなんてのは、他人に迷惑をかけない人間だけが言って良い台詞だ」
「あー、ご高説」
 女は辻の言葉にだけ敵意むき出しのうんざりした声で応え、ミニスカートから伸びた足を組むと小さな鞄から薄いボックスの煙草を取り出して咥えた。
 それを、辻が取り上げる。
「返してよ」
 ソファから腰を上げた辻が、大抵の人間なら竦み上がるような静かな眼差しで見下ろしても、女は眉を顰めただけだった。
 思わず瀬良が気を揉んでしまう。何度数えても、集金額が数えられない。
 今まで、辻が本気を出したところなんて数回しか見たことがない。辻がそうなる前に多くの人間は逃げ出してしまう。それが失禁なのか、がむしゃらな暴走なのか、文字通り背中を向けて逃げ出すのか、話し合いに持ち込もうとするのかは人それぞれだ。
 女は暴走のようには見えない。淡々と、辻に歯向かっているようだ。
 辻は答えずに、手の中の細い煙草を折った。それを灰皿に捨てて、スーツのジャケットを脱ぐ。まださっき浴びたばかりの水が滴っている、それを拭ってジャケットを丸めた。
 珍しい。
 瀬良には、辻が苛立っているように見えた。そんな姿を見たのは初めてだ。
 相当馴染みの女だったということだろうか。
 瀬良は身を屈めて、十文字を見遣った。興味がなさそうにページを繰っている。
「それ、あたしの金で買ったんだけど。ねえ、そういうことするわけ? 聞きたくもない説教を聞くために人を呼びつけておいて、礼儀も糞もないわね。それで極道? 笑わせんじゃないわよ」
 女の声は鈴を鳴らすように涼やかで、辻が苛立つのに比例して冷静になっていくようだった。
 瀬良はますます自分の背筋が冷えていくのを感じた。仮にもここは暴力団の事務所で、相手は菱蔵の中でも筋金入りの極道者だ。相手が悪い。
 瀬良は机の天板に伏せるように頭を抱えて避難した。辻を侮辱するような言葉を吐けば、辻より怖いのが口を開きそうだ。
 しかし、身を伏せた瀬良を正面の灰谷が不審そうに眺めている。
 十文字は相変わらず動こうとしない。
「――説教させるようなことをするな。俺だって好きでお前に説教してるわけじゃない」
 辻が、丸めたジャケットをソファに投げつけた。それを合図のようにして、女は乱暴にため息を吐いたかと思うと勢いよく腰を上げた。足が長く、モデル並みの長身だ。確かにこれは男が垂涎の目で見るだろう。
「じゃあしないでよ! 説教してくれなんて頼んでないわ!」
「――ッ!」
 反射的に、辻の腕が振り上げられた。思わず、瀬良が腰を上げる。
 いくらなんでも辻が女に手をあげるのは見ていられない。しかし、動いたのは瀬良だけだった。
「どうしたの? 殴れば?」
 女は途中で拳を止めた辻のことをせせら笑っている。辻がギリ、と歯軋りをしながらゆっくりと腕を下ろした。
 一方でうっかり立ち上がってしまった瀬良が所在なさげにしていると、ようやく十文字がチラリ、と瀬良を仰いだ。退屈そうな眼差しだった。眠そうに半分目蓋を落として、瀬良に座れ、と指図するように顎をしゃくる。
「みっともない。……そんなんでよく十文字さんに呆れられないもんだわ」
「十文字は関係ない」
 極力音を立てないように瀬良が着席するまで、一度も辻は瀬良を見ようとしなかった。
 状況が判らないが、ただ一つ判っているのは、この状況を理解してないのは瀬良だけだということだ。
「十文字さんの番犬でしょ? 使いものにならない番犬じゃ困るじゃない」
 アハハ、と女の乾いた笑い声が事務所にこだまする。十文字はまだ口を挟む気がないようだ。瀬良は金を数えることを諦めて、事の成り行きを見守ることにした。
「お前が口を出すようなことじゃない」
「じゃあそっちも口を出さないでくれない?」
 ソファを立って向き合った辻と女は、一触即発といった風だ。最初は怖いもの知らずの女だという印象を抱いた瀬良も、今となっては女の肝の座り具合に舌を巻いていた。
 女と対峙しているのが瀬良だったら、おそらくとっくに負けているだろう。
「口を出すなとはなんだ、」
 ついに辻が声を張り上げた。めったにない辻の怒号に瀬良が首を竦めると、女も負けじと声を荒げた。
「しつこいのよお兄ちゃんは! あたしもう23よ? どんな仕事しようと勝手でしょ!」
「お」
 思わず声に出してしまってから、瀬良は慌てて両手で口を塞いだ。
 お兄ちゃん。
 女は確かに、辻に向かってそう言った。
 何度も瞬きしながら目を凝らして二人を見比べる。とても共通項は見つからないように見える。辻は骨太だし、女は華奢だ。二人とも平均より背が高く、強い眼差しをしている。鼻筋は通っていて、どちらも頑固そうな――似ていないことも、なさそうだ。
「汐ちゃんは、反抗期だねえ」
 暢気な声を挟んだのは、十文字だった。
 ようやく手元の本を閉じて、椅子の背凭れに背中を預ける。手元の本はやっぱり漫画本だった。
「男のくせにしつこいのよ。十文字さんもそう思わない? しつこい男は嫌われるよね」
 ぶるっと濡れた髪を振るって応接セットから踵を返した辻は、頭を冷やそうとするように奥の流し台に向かった。
 その途中で、瀬良と目があった。
 辻は無表情のまま顔を逸らした。
「んー、どうかな」
 辻の妹ということは、十文字との付き合いも長いということか。珍しく優しく温和な口調で首を捻った十文字が、辻の背中を振り返ってから、汐と呼ばれた辻の妹をもう一度見る。それから、唇のそばに掌で庇を作って内緒話をするように声を潜めた。
「……でも、辻はしつこいから良いと思うんだけど」
 しかし、十文字の席から応接セットまでは遠い。潜められた声は事務所内に丸聞こえだ。もちろん、辻の耳まで届いているだろう。
「汐ちゃんが心配だから、いろいろ口出すんだろうし。しつこいくらい面倒見がいいのが、辻のイイトコじゃない?」
 流し台では辻がコーヒーを淹れていた。香ばしい香りが漂ってくる。辻の表情は影になって見えない。
「うーん……、十文字さんがそう言うなら仕方ないか」
 細い腕を豊満な胸の下で組んだ汐は露骨に難しい表情を浮かべながらもそう答えると、流しにいる兄の元まで歩み寄って、その広い背中を気安くぽんと叩いた。
 辻の妹ということは、汐も極道の娘ということだ。茅島とも親交があっただろうし、肝の座り方がハンパなくても当然と言える。
 瀬良は椅子に深く腰掛けて密かに長く息を吐いた。灰谷は知っていたのだろう。呆れたように瀬良を見ている。
「十文字の言うことは聞くんだな」
 妹に宥められた辻が露骨に顔を顰めて振り返った。
 あんなに緊迫していた言い合いも、他愛のない兄弟喧嘩というわけか。
 汐はさっきまでの剣幕はどこへやら、まだ幼さの残る顔を綻ばせて笑った。
「違うよ、お兄ちゃんのしつこいところを十文字さんが嫌いじゃないなら、別にいいってことだよ。お兄ちゃんは十文字さんにさえもててればいいんだもんね」
 そう言って、汐は辻が淹れたばかりのコーヒーを取り上げた。
「……」
 辻が十文字を振り返る。
「……」
 十文字は口元を掌で覆って、首を竦めて辻を見返した。
 瀬良はそこまで見届けると再び手元の集金額を数える作業に戻った。