僕と君だけの世界(2)

 僕は朝六時半に起きる。その時間に父親が家を出るからだ。
 僕と父親は滅多に顔を合わせない。僕ぐらいの年頃の子供は親を苦手に思うらしいけど、僕にはそれがない。苦手に思うほど一緒にいたりしない所為だ。
 リビングで母親が朝食を用意して待っている。僕はそれを食べたり残したり、時には食べないで出掛けたりする。母はその都度態度を変えたりしない。
 僕は、利口でいるくらいなら難なく出来ると思う。だけどそうしない。僕の性格を考えれば利口にしていた方がよっぽど楽に生きられるか知れないけど、僕はそうしない。何故なら、そうする必要がないからだ。
 世の中には利口でいる必要がある生徒がいる。例えば何か後ろめたいことがある人。反対に利口じゃない不利をする生徒は恐らく自分の中の正しい面や優しい面を恥じて、覆い隠そうとしているのだろうと僕は推測している。僕はどちらでもない。だから利口な時も利口じゃない時もある。自分が本当はどっちなのかなんて知らない。
 自分は詰まらない人間だと思う。でも僕の周囲にいる他の人間がどれほど面白いのかは知らない。
 誰にでも心に一つは隠し事がある。だから僕は両親に、部活動をしていると嘘を吐く。そうして手に入れた空白の時間、僕は町田駅から少し離れたハンズの前に立っている。
 いつから自分の躰が売り物になったのかあまり明確に覚えていない。でも、特に抵抗は感じなかった。感じていたら僕はハンズの前に立つのを止めて別の場所で時間を潰していただろう。
 むしろ僕は楽しんでいた。自分の躰に値段を付けられることにも、僕の躰の中で射精する男の性的な行為に対しても。
 今にして思えば自分と他人との正確な距離を測りたがっていたのだ、僕は。
 
「いくら?」
 僕はその日の夕方も、ハンズの前でわざと所在なさ気な表情をして立っていた。
「さぁ、……したいことにも、よりますけど」
 僕は興味のない表情でそう言ってから、今日の客になるのであろう人の顔を見上げた。若い。
「今、七万くらいしか持ってないけど、足りるかな」
「あぁ、充分じゃないですか?」
 僕は寄っかかっていた柱から背中を離して答えた。
 年は少なくとも二十代後半から三十代前半といったところか。敢えて言葉にするなら精悍な顔立ち、という感じの男だ。僕はじろりと男の体躯を眺め回した。若い男は珍しくないけど、下手したら警察とかかも知れない。
 二学期が始まって間もなく、クラスの女の子が一人学校を辞めた。何でも、デートクラブでバイトをしていたとかで警察の捜査に引っ掛かったらしかった。僕は捕まりたくないわけじゃない。でも、こんな事がばれたら「普通じゃない子だ」と思われるんだろう。僕は特に目立った生徒じゃないから「そんな子には見えなかった」と言われ、美化された思い出を語られるんだろう。僕はどっちにも偏りたくない。だから捕まるのは得策じゃない。
「じゃあ、行こうか」
 男はそう言って勝手に歩き始めた。おどおどした感じがしない。人目を気にする様子がない。いつもの客とは少し印象が違った。男の様子には二通りの理由が考えられる。一つは、男が本当に警察の関係者だった場合――本当に僕を買うんじゃなければ、おどおどする必要も人目を気にする様子もないだろうし。でもそんな毅然とした様子を僕に悟られるっていうのはあまり演技力のない刑事だと言える。
 もう一つ考えられるのは、男が真性のホモで、こういうことに慣れっこな場合だ。僕を買うおじさん達は妊娠させる心配がないからくらいの理由で、男である僕を買ったりする。所謂バイセクシャルというか、女を買う度胸も甲斐性もないのだ、と僕は思っている。それくらい「僕を買う」ことに不安そうな人ばかりだ。
「名前は何ていうの?」
 男は自然な様子で尋ねた。何処に歩いているのか、と思いながら僕よりも十センチは高そうな背中を見上げながら付いて行くとちゃんとホテルに着いた。いつもは僕が客をホテルに案内する。車に乗せてあげるから別のホテルに行こうという誘いは断るようにしている。事件の巻き込まれるのを避けるためだ。
「藤田瑞帆」
「いくつ?」
 男同士で入れるホテルは少ない。しかし男の選んだホテルはすんなりと入れた。僕の知らないホテルだった。やはり慣れているのだろうか、こういうことに。
 しかし僕のことをいろいろと詮索するような質問責めはいただけない。警察なのか、と思いながら僕は、捕まらないで済む方法を考えてもいなかった。
「高校生だろ?」
 男は僕に媚びる風でもなく、横柄でもなかった。何かもっと別の雰囲気を纏っていた。僕は気を抜くと自分のいつもしていることだということを忘れてしまいそうな、変な気持ちになった。
「二年生です、十七歳」
 男は部屋に入るとまず冷蔵庫からビールを抜き出した。僕にも勧めようとする。
「武田優哉」
 僕がビールを断ると、男が自分の分のプルタブを引きながら大きなベッドに腰を下ろした。かなり高い背の人が沈み込むと、大きな山が崩れたように見えるのに、彼は違った。どことなく可愛らしい仕草でさえある。
「え?」
 男は初めて僕の顔を真っ直ぐ見ながらにっこりと笑って、自分の胸を指差して見せた。どうやら自己紹介されたらしい。
「相手にだけ名乗らせるのは不公平だろう?」
 そう言って、武田と名乗った男は可笑しそうに声を上げて笑い出した。
「二十三歳、フリーター、独身」
 警察じゃないか、と疑う理由が無くなった。彼の言うことを鵜呑みにするわけではないけど。
「男の人が好きなんですか?」
 こうして買われた僕が尋ねるのも変な話かも知れないけど、と思いながら僕も武田を真っ直ぐ見返した。何だか目を逸らすことはしたくなかった。僕は悪いことをしているつもりもないし恥じていない。僕がおどおどした側になりたくなかった。
「うん。君は? えぇと、瑞帆くん……それとも藤田くん、の方が良い?」
 僕はただ首を小さく振ってどちらでも良いと答えた。
 始めの頃は、何でいちいち名前なんて尋ねられるんだろうと疑問に思っていた。性行為自体は興味深かったけど、男の、女々しいという意味でのいやらしさが時に嫌で、偽名を名乗ることもあった。でも名前を尋ねてくる客というのは行為の最中に囁く必要があるからで、どうせ囁かれるのなら聞いたこともないような名前よりも耳慣れた名前の方が良いという理由だけで僕は、名前を訊かれたら本名を名乗るようにしていた。
「僕は、別に……何とも思ってないです。男も、女も」
 僕が答えると武田はそうか、と言って、笑った。