僕と君だけの世界(3)

 武田のセックスは僕にとって目新しいものは何もなかった。僕の躰を傷つけようとするわけでもないし、僕だけをイかせようと意地悪するのでも、反対に射精を禁じるような真似もしなかった。ただ武田の性器は立派で、挿入に少し手間がかかったのと――武田も自分の大きさをよく知っているのだろうから無理に捻じ込むようなことはしなかったし――僕が躰を突き動かすリズムと武田の腰を打ち付けるタイミングが丁度良くて、僕は「満足」するための努力をしないで済んだ。
「こういうの、慣れてるんだ」
 行為の後で武田は僕をバスルームに誘った。
 その分の料金を追加するべきかどうか僕は大分考え込んだ。慌てふためく男やのんびり構えている振りをする男は見飽きていたけれど、無邪気とも言えるような自然な成り行きで「シャワー浴びないか?疲れてるなら寝てても良いけど」なんて訊いてくるような男は見たことがなかったからだ。
 僕の中にある台本に載っている料金表にないサービスはしなければ良かったのかも知れない。だけど接客業のマニュアルが客に合わせていつも改訂される運命にあるように、僕の台本もこうして改訂されていくんだろう。
「いつからやってんの?」
 武田はまるで、良い顔をする家庭教師みたいに、バイト先の気安い先輩みたいに、にこにこ笑いながら僕の顔を覗き込んで来る。頭洗ってあげようか、なんて言いながら。
「さぁ……覚えてません」
 明確な境目は確かにあった筈だ、でも覚えていない。それほど僕にとっては特異なことではないからだろうと思った。
「別に遊ぶ金欲しさってわけじゃないんだろ?そういう人が多いみたいだけどね」
 何のためにやってるのか、そう訊かれるのかと思って僕は身構えた。でも武田は訊いてこなかった。ただ、犬を洗うみたいな乱暴な手つきで僕の頭を洗った。

 時計の短針が七の字に掛かろうかという頃になったのを見て、武田は財布を取り出した。
 シャワーを浴びながら何か性的なことをされたのでも言われたのでもないし、舐め回すように見つめられたのでもない。むしろ、いい年になった兄弟が一緒に風呂に入ったみたいな、笑えるような気恥ずかしいような雰囲気で、だから僕は普段通りの料金を告げた。
「何か飲む?」
 札を扇状にして――支払いの殆どを千円札と小銭で掻き合わせるようにして払う人を僕は初めて見た――数え直してから、武田は僕の手にしっかりと料金を手渡した。
「もう帰らないと」
 客から僅かばかりの料金を受け取った瞬間から、僕は急に現実世界に引き戻される。そんな気がするのはいつものことだった。再び冷蔵庫の扉を開いた武田から目を逸らして、僕はナイロンで出来た鞄の奥に受け取ったお金を生のまま放り込んで立ち上がった。
 武田はビールを口にしながら僕を見上げて、何も言わなかった。
 一歩半、出口に向かって歩き始めてから僕は尋ねた。
「僕のこと、どう思ってんの?」
 武田を振り返る。視線が合った。
 僕は、心の何処かで期待していた。武田なら、この男なら、僕にも判らない「僕の期待している答え」を導き出してくれるんじゃないかと――或いは、そんな答えは存在しないことを判らせてくれるんじゃないかと。
「どうしてそんなことを訊くんだ?」
 僕は、初めて武田の顔をしっかりと観察した。
 客の顔をこんな風にちゃんと見たことは今まで無かった。僕が見たかったのは僕の躰に満足した男が射精する瞬間、たった一刹那の表情だけだった。今日も武田のその瞬間の表情は見ていた筈なのに、その顔はもう忘れてしまった。このまま別れていたら、次にハンズの前で逢うことがあっても武田の事なんて思い出せなかったかも知れない。
「僕にも、判らない」
 武田は書いているのかと確かめたくなるような綺麗な山型の眉をしている。だから、先刻みたいに笑っているのを止めてこうして真面目な顔をしていると怒っているように見える。睫はあまり長くない。だけど眸を伏せていると何か色気があるような、不思議な目元をしていた。
 その目を再び僕に向けて開いて、武田はにやりと笑った。不適な笑いも無邪気な笑いも似合うような、恵まれた唇だった。
「当ててみせようか」
 そう言って武田はビールを呷った。惜しみなく晒された首に、喉仏が上下する。武田の容姿を観察していると、不思議と忘れた筈の武田の恍惚とした表情が思い出せるようだった。
 僕を抱いたおじさん達は僕を抱いたことなど記憶の奥底に隠して生きているだろう。僕を買ったことを昼間の自分とは別のものとして捉えているだろう、そうして自分を正当化しているに違いない。僕と同じ年の息子がいるというおじさんもいた。自分の人格と性欲は別にして考えないとやっていけないんだろう。
 でも武田は裏も表もないような気がする。存在がフラットで、武田は何処をとっても武田だというような、金太郎飴のような。だからこうして、シャワーを浴びてこざっぱりとした様子でビールを飲んでいる姿を見てもあの瞬間が思い出せるのかも知れない。
「君は」
 バッグを片手に立ち尽くした僕に、武田は咳払いをして言葉を続けた。
 「君は臆病なんだ、だからそんな風に関係を明確にしようとする。……違うか?」
 時計の針が容赦なく盤面を走っていく。僕はもう家に帰らなくてはいけない。母親が僕の帰りを待っているから。
 それでも、僕は武田に尋ね返さずにいられなかった。
「臆病?」
 行きずりのセックス相手、金で買える、妊娠の心配のない女の代用、公衆便所。考えさせてくれと震え出す男や、何だよそれと笑い出す男もいた。僕は自分を人として扱われていないような言葉を吐かれても何とも思わなかったし、男を怖がらせる気もなかった。僕は、客にそう尋ねるという行為に意味があるのだと思っていた。それが僕にとっての快楽なのだと思っていた。
「気に障ったらごめん」
 武田は少し眉を寄せて苦笑した。それに対して僕は小さく首を横に振る。
 それが答えだとは思えなかった。でも、確実に真実のある一面を示している。武田は僕に、どうしてこんな事をしているのかと訊かなかった。武田のようにたくさんの会話を求める客は――そういう客の多くは動揺や興奮の所為で口数が多くなってしまうだけなのだが――必ず僕の動機を聞いた。僕はいつも、適当なことを答えた。僕にも判らないことだったからだ。
 だけど僕はどの客にも必ず、別れ際に僕のことをどう思ってるのかと訊いた。それが答えだったということに、客も僕自身も気付いていなかった。
 僕は急に恥ずかしくなって俯いた。武田は僕がどうして躰を売ったりしているのかと訊くようなことはしなかったのに、僕は勝手に答えてしまったのだ。
「また逢えるかな?」
 そう言った武田の言葉が耳に飛び込んできた瞬間、僕は自分の心臓がいつもと違うペースで脈を打っていることにやっと気が付いた。