僕と君だけの世界(4)

 僕は客を待っているわけじゃない。いつも同じ場所で時間を潰しているだけだ。僕はハンズに隣接したJR横浜線の改札口に吸い込まれていく人や、ハンズの入口から大きい荷物を抱えて出てくる人を見たり、妙に白っぽい空を見上げて夕方を待つ。僕が此処以外に行く場所がないような表情をしていると、客になる男が寄ってきたり、或いは寄ってこなかったりする。僕にとってはどちらでも良い。来れば台本の表紙を開き、誰も声を掛けてこなければそのまま時間を潰して帰るだけだ。
 どうしてそんな風に無駄な時間を持とうとするのか僕にも判らない。何かに疲れているわけじゃないのに。
 僕は僕を探ろうと思わない。だけどそんな僕のことを勘違いする人が世の中には多いみたいだ。僕と僕の周囲の世界に対して、僕自身が一線を画しているように、他人には見えるらしかった。それは学校の先生や同級生達もそうだし、そしてハンズの前で僕を値踏みするおじさん達も、僕がそう見えるみたいだった。

「瑞帆、今日も部活なの?」
 母親は時間の余裕がある時だけ僕の弁当を作る。いつもは大抵お金を握らせて済ましている。一日の食事代は三百~五百円だ。僕はそれが多いのか少ないのか知らない。足りないと思ったことがないからだ。アルバイトをしていないことになっている僕に親はお小遣いをくれるけど、足りない時は言ってねと母親は言う。足りなかったことがない。欲しいものがないのも事実だけど、僕は親に秘密の貯金がたくさんあるからだ。
 金に困ったことがないと世の中の相場が判らない。欲がないから飢えを知らないのか、飢えがないから欲を持ち合わせないのか、どちらなのかは判らないけどそれは多分世の中のあらゆる事に言えるんだろう。僕は性欲の処理に困ったことがない。だから同級生が貸し借りしているビデオの必要性を知らない。僕がどれほど淫らな面を持っているのか知ることが出来ない。僕は僕の何も知らない。僕は相対性を持ち合わせていないのだ。
「今日も遅いの?」
 母は卵焼きを弁当箱の隅に押し込みながら言った。甘い匂いがダイニング中に充満している。僕は朝食を食べる手すら止まりそうになった。
「瑞帆?」
 返事をしない僕の顔を母が覗き込む。僕は目を逸らした。
 菜箸を握る母の指は細い。僕は彼女のその華奢な手足を尊敬していた。父親は家に金を入れるだけで家族らしい思い出の一つも持っていない人だった。僕は裕福ながらも、片親で育ったようなものだ。
 母親は父親の働きのおかげで家事が多少出来なくても何ら問題になることはなかった。父の収入で食事は外食をとれば良かったし掃除は業者を呼べば良かった。何よりも妻が家事を出来ないことを知ったところで彼らには喧嘩する時間など無かったのだ。僕が生まれたことが不思議なくらいだと誰より僕自身が思っている。母を疑うような真似はしたくないけど、疑いたくなるくらい父は家に寄りつかなかった。昔から。
 母親は時間の余裕がある時だけ僕の弁当を作る。いつもは大抵お金を握らせて済ましている。一日の食事代は三百~五百円だ。僕はそれが多いのか少ないのか知らない。足りないと思ったことがないからだ。アルバイトをしていないことになっている僕に親はお小遣いをくれるけど、足りない時は言ってねと母親は言う。足りなかったことがない。欲しいものがないのも事実だけど、僕は親に秘密の貯金がたくさんあるからだ。
「……判らない」
 茶碗に残った白米を口の中に押し込みながら僕が答えると、母は黙って目を伏せた。
 ――君は臆病なんだ、だからそんな風に関係を明確にしようとする。
 武田にそう言われたのは二週間も前のことだ。珍しく客の顔を覚えていると言っても、もう殆ど忘れかけようとしている。だけど武田の言葉は思い出すことが出来た。僕はあの日以降も、客に動機を聞かれたら答えるようにしていた。僕のことをどう思っているのかと。しかしそれはもう僕の快楽じゃなくなってしまった。僕は僕の快楽を失ってしまった。もう一度武田に会いたいと思った。僕の快楽を探すためだけに。
 
 学校という組織の中で僕は目立たない生徒だと思っている。目立ちたがる生徒は他にいるから、僕は目立つ必要がないし、僕は人と違ったものを何一つ持っていなかった。特別友達が多いわけでもないし、まるでいないわけでもなかった。
「藤田、世界史の小テスト勉強してきた?」
 何故かいつも薄暗い昇降口に入ると、声を掛けてきたのは同じクラスの宮前だった。彼は成績が優秀で、本人もそれを自慢にしている節がある。彼は目立つ理由があるし、彼自身も学習成績で目立つということに誇りを持って、そうなろうと努力を続けているのだろう。
 していない、と答えると宮前はつまらなさそうに僕の横を通り抜けて行った。テストの勉強をしてきたか、と訊かれたらもししていたとしてもしていないと答えるのが決まりらしい。僕ですら知っていることだし、宮前もその決まりをもちろん知っている。それは誰でも知っていることだ。
 宮前は今、僕に幻滅した。僕が決まりきった返事をしたからだ。彼は自分が特別高度な頭脳と言語能力を持っていると思っている。そして、僕にはそれを理解する能力があると信じているらしい。つまり僕のことを買い被っているのだったが、僕はそれを告白された時に何故宮前が突然超能力の話を始めたんだろうと思った。一部の人間にしか理解できない言語なんてあるとは思えなかった。もしあるのだとしても僕が宮前を理解してあげられるとは思えない。だって僕は僕自身のことすら理解できていないのだから。他人が理解できる人間というのは武田のような人のことだ。
「藤田、良いところにいるじゃないか」
 昇降口を上がったところにいたのは神谷先生だった。おはようございますと頭を下げると彼はおはようと軽く返しながら僕の肩に手を置いた。
「藤田は二組だったよな?一時間目の教材を運ぶのを手伝わせてやろう」
 三十代半ばで、どちらかといえば若い部類に入る彼は生徒に人気があった。と言っても大した人気ではない。ちょっとしたものの言い方が今のように軽いから、何でも命令口調で言う教師達よりはとっつきやすいという程度で、絶大な信頼を得ているというわけではない。それでも彼はこの学校の教員の中では目立っている方だ。
 目立つ目立たないというのは自分が所属する集団によって決まるものでもある、と思う。僕だって小学生の輪の中に入れば自分の意志に関係なく目立つのだろう。目立ちたくないと強く願えば背を屈めることでその希望は叶うのかも知れないが、僕はそこまでして目立ちたくないと思うわけでもない。
「よーし、よし、藤田はいい子だな」
 僕が笑って彼の頼みを快諾すると、彼の掌が今度は僕の頭を撫でた。彼は、ハンズの前で立っている僕の躰を買う男達に似ている、と思う。彼の中には僕の躰に対する欲望がある。もし彼が僕を抱くとしたらどんな風にするのだろうか。彼も訊くだろうか、僕が男に躰を許す理由を。
 僕にプリントの束を渡しながら僕の腕を掴んだりする先生の顔をじっと見ると彼はにやりと笑いながらどうした、と訊いた。
「小テストの問題を事前に教えて欲しいとか?」
 彼の言葉はあながち冗談じゃないだろう。僕は彼が世界史の先生であることすら意識しない程度の思い入れしかなかったけれど、僕は以前にも彼に期末考査の試験問題を仄めかされたことがあった。
 例えば僕が今頷いて、お礼に彼に躰を投げ出すことを提案したらどうなるだろう。彼が僕の躰を積極的に欲しがるのじゃなく、僕が彼を誘惑したら。彼は今でこそ、常識や自分の地位などに捕らわれているけれど、僕から言い出すのであれば渡りに船とばかりに僕を抱くだろう。些細なきっかけさえあればすぐに自分の欲望を剥き出しにするのはハンズの前で僕を買う人たちも彼も何も変わらない。先生を誘惑することは僕の快楽になるだろうか。それはなかなか面白い想像だった。