僕と君だけの世界(5)

 僕はいつも通りあてもなく立ち尽くす。制服の上にピーコートを着ても、ひどく寒い季節になっていた。僕は体を竦めるようにして、何時間も同じ場所に立っている。
 毎日誰かが買ってくれるとは限らない。それでも僕はすっかり日が沈んでしまってもまだ、じっと立っている。客を待っているわけではない、と僕は思っている。じゃあ何のために立っているのか、何を待っているのか、体を突き刺すような寒さに耐えてまで僕はどうして此処に立つのを止めないのか、止められないのか、僕には判らない。僕が判らないことを一体誰が判るんだろう。武田なら、判るのだろうか。
 僕は立っている間何も考えないようにしていた。男が寄ってきて、恐る恐る誘いの文句を掛けてきた時にだけ、僕は相手を見定めて危険性を考える。商談が決まれば後は行為が一通り終わるまで、また何も考えない。金を受け取った瞬間僕は現実世界に舞い戻ってきて、家へ帰る。でも僕が握っている現実世界なんてたかが知れている。僕が帰る家だって現実だとは思えない。何が現実なのかも判らないのに、僕は現実から逃げたくてこんな事をしているのだろうか。そう考えることも出来る。
 今日もビルの谷間に赤い夕日が沈もうとしていた。ポケットに突っ込んだ手の指先は神経が麻痺するほど冷たく、僕の前を通り過ぎる人たちは皆背中を丸めて、逃げ込むように目的地に走る。僕は寒くないような顔をしていた。僕は何も感じない。感じたくないのだ、とすら思っている。
 一昨日僕を買った中年の男はやたらと僕の名前を囁いた。本当か嘘かは判らないけど、数年前に息子を事故で亡くしたのだと言っていた。その息子が生きていれば僕と同じくらいの歳になると。僕は、何故こんな事をしているのかと訊かれることはあっても何故こんな少年を買うのかと客に訊くことはない。知りたくなかったわけじゃないけど、いつも訊きそびれていた。きっと聞いても僕には理解できないのだ、という諦めもあった。僕に理解出来る事なんてこの世には殆ど存在しないのだ。
 僕は不意に思い出して、マクドナルドやサーティーワンなど、ファーストフード店の立ち並ぶ広場へ向かった。今朝母が作ってくれた弁当を捨てるためだった。僕は彼女の作った弁当を食べたことがなかった。だけど僕は美味しかったよと必ず言う。彼女が「今日はお昼ご飯買ってね、ごめんね」とすまなさそうな顔で僕の掌にお金を乗せる時は残念そうな表情をして見せた。そうした方が母が喜ぶからだ。僕は彼女の悲しそうな顔や泣いた顔は好きじゃなかった。でもそれは、僕が親思いだからなどではなく
 ただ、鬱陶しいからだ。
「瑞帆くん」
 背中を叩かれて、僕は思わず弁当箱ごとゴミ箱の中に落としてしまった。
「あぁ、……ごめん」
 僕より早くそれを拾い上げてくれたのは、武田だった。
「驚かせちゃったかな」
 ほぼ一ヶ月前とまるで変わらない、人の良さそうな笑顔だった。もっとも、一ヶ月や一年で容易に人は変わるものじゃないし、きっと武田はずっと変わらないのだろう。彼は強い人間だと僕は思っていた。それはこの笑顔がそう思わせるのだろう。そして、強い人間は他人によって変えられたりしない。僕のように、他人にねじ曲げられることなんて知らないだろう。
「覚えてる?」
 何も言わない僕の顔を覗き込んで武田は自分の顔を指さした。僕は頷いて、彼の名前をたどたどしく口にした。こんな会話は他の客とはしたことがなかった。僕を二度も買う人がいなかっただけなのか、客の顔をまるで覚えない僕が悪いのか。
「今日はもう店じまいかな」
 武田は自分の腕時計に目を落とす。仕立ての良さそうなスーツを着ていて、その中の体は本当に寒そうには見えなかった。寒くないという顔をしていても風が吹くたびに鳥肌を浮き上がらせている僕とは違って。
「ほんの少しで良いんだ、お茶を飲むだけで良い」
 武田は唇に笑みを浮かべて、しかし真摯な瞳をして言った。僕はその瞳を真っ直ぐ見据えた。まるで跳ね返されそうになるような力を感じたけど、僕は足を踏ん張って武田の顔を見つめた。勿論お金は払うよ、と武田は付け足したけど、僕はそれに首を緩く振った。
「別に良いですよ、今からホテルに行っても」
 僕は僕の快楽を知りたいのだ。