アルバイト(3)

 店長に彼女がいるという話は聞いたことがなかった。
 社員さんの一人は既に結婚していて、人目を憚らない熱々っぷりだったので、店長は自分が一人身なのをネタにして大学生に合コンをセッティングしろだの、夏休みを欲しがる恋人持ちのアルバイトに意地悪してやるだのと言っては笑っていた。
「金井くんは、夏休みどうする? 家族で旅行とか行かないの」
 高校生は夏休みこそ稼ぎ時だ。とは言え、一ヶ月と少しある夏休みの内の数日間は連休を取りたがるバイトも多い中で、僕は不思議と休もうという気がなかった。
「いや、父もボーナスなかったみたいだし、旅行なんか行かないですよ」
 僕が答えると、湊さんが僕の肩を叩いて、じゃあ任せた、と笑った。指には彼氏から貰ったというシルバーリングが輝いている。任せといてください、と僕は頷いて見せた。
「うわー、たのもしいなぁ」 
 店長が拍手する。湊さんも一緒になって手を叩いた。俺の分も頼んだ、俺の分も、と他のアルバイトが便乗の声を上げた。中にはどさくさに紛れて給料は俺に振り込んでくれて良いから!と言い出す奴までいた。
「金井くんは一人しかいないんだからそんなには無理です」
 店長が、調子に乗るアルバイトを咎めるように一言、笑いながらやんわりと制す。半ば本気で言ってる人もいた中、漸くリクエストの声が止んで、僕は内心少しがっかりした。
 どうせ夏休みなんだから、開店から閉店まで、毎日だって働いても良いつもりでいたのに。
 湊さんが彼氏と旅行に行くという話を聞くと、尚更そう思った。湊さんがいなければ、レジを担当するのは僕しかいないのだから。
「じゃあシフトは来週発表するから」
 鉛筆の先で頭を掻きながら、店長がヒラヒラと手を振る。それを合図にしたように、アルバイトは散り散りに帰って行った。お疲れ様ですという声、店の裏口を出ると、皆それぞれに携帯電話をいじりだした。夏休みの予定で忙しいんだろう。
「金井くん、本当に週六日でも大丈夫?」
 エプロンをロッカーに押し込んだ僕を振り返って、店長が窺うように尋ねる。七日でも良いくらいですと言いたいのをぐっと堪えて、僕は頷いた。
「夏は期間限定メニューも出るし、面倒だよー」
 お客さんも多いし、と言いながら店長が伸びをする。お客さんが多いことは店長にとっては喜ばしいことだろうし、忙しいのが楽しいと思える僕にとっても苦じゃない。
「限定メニュー美味しそうですよね。友達にも宣伝しときます」
 同級生が店に来てくれたことは既に何度かあった。店長がいる時は、マフィンをサービスしてくれて、僕の友達にとっても店長は良い人だと気に入られていた。店長を褒めてくれる友達の反応を見るのは何故だか僕にも嬉しくて、僕はまた友達を呼びたいと思っていたところだった。
「あ、じゃあ割引券持っていきなよ。三十パーセントオフのやつ。何枚でも持ってって良いよ。レジにあるから」
 回転椅子の背凭れに身を預けながら、上体を反り返らせて僕を振り返った店長が鉛筆でレジを指しながら言う。三十パーセントオフの割引券は、常連さんにしか渡していない貴重な割引券だ。僕は有難う御座います、と答えてお言葉に甘えた。
 レジに向かう。
 閉店後の店内は薄暗く、ブラインドを下げた窓から時折車のヘッドライトが差し込む以外明かりらしい明かりがない。さっき自分で綺麗に整頓したばかりのレジの前に立って、僕は抽斗を開いた。輪ゴムで止められた割引券を、五枚ほど引き抜く。担当者の名前をボールペンで書いて今日の日付を押せば、割引券としての効能を果たせるようになる。
 僕は暗い店内でボールペンを探り、名前を書き始めた。
「金井くん」
 二枚ほど名前を記した時、すぐ近くで店長の声がした。
 瞬間、しまった、と思ったけどもう遅い。逃げようという気すら起きなかったけど、その代わりに心音が息苦しいほどに跳ね上がってきた。
「本当にいつも有難うね、文句も言わずよく働いてくれて。……高校生でこれだけ働いてくれるのは、金井くんくらいものだよ」
 不意に背中一体が暖かくなった。尻は撫でられなかったが、ボールペンを握った僕の手に店長の手が重なる。
 クーラーを切った店内に冷気はまだ残っていたけど、背中から躰を密着されるとやはりどこか蒸し暑く、僕はじっとりと汗ばんでいた。
「今月からまた、時給を上げてあげるよ」
 店長のもう一方の手が、僕のお腹を撫でた。ティーシャツの上からゆっくりと、下腹部に向かって撫で下ろされていった。
「夏休み中、ずっと週六日働いてくれたら皆勤賞もあげられるし――――」
 店長の声は、どこか遠くに聞こえた。
 お金が欲しくて働いてるわけじゃない、そう答えようとして、僕は喉を詰まらせた。店長の手が僕の股間に触れたからだった。
「金井くん、……嫌じゃないの?」
 揶揄するように笑った店長の声。
 いつもと違って、前から触れられる店長の手はあっさりと僕のパンツのジッパーを下げ、その中に滑り込んできた。
「ッ、――――……何」
 何でこんなことを、と問い返そうとして僕は震える唇を噤んだ。そんなことを訊くのは野暮だ。誰かの肌に触れようと思うことの理由なんて、一つしか思いつかない。
 そして僕もまた、店長に触れられた股間を大きく膨らませていたのだから、同じ穴の狢だ。