甘いくちびる(3)

 休憩室に山積みにされたチョコレートはチロルチョコレートみたいにあからさまに安物じゃなかったけど、この時期になると今まで見たこともなかったようなメーカーからこぞって発売される、所謂義理チョコ用の、或いは小学生の女の子くらいをターゲットにしたような面白みも何もない、味も素っ気もない商品だった。
 安っぽい金色の箱に[especially for you]とか印刷されたシールが貼ってある。超特別な貴方に、ってところだろうか。
 例えば、俺が冬に初恋を体験していたらクリスマスやバレンタインを「恋人」と過ごすようなことがあったのだろうか。
 バイト先の工場を出ると、すっかり息が白くなってそれを見ただけで俺は身震いをした。制服の上に着たコートのポケットに、貰ったチョコレートをしまって自転車のハンドルを引く。
 もって二、三ヶ月だけの「恋人」が本当の「恋人」だなんて思ってない。もし俺が冬に「恋人」を用意するような性活サイクルだったとしたら、そんな言葉だけの「恋人」に「超特別な貴方へ」なんて書かれたチョコレートを用意しただろうか?
 ――いや、まさか。
 あんなに楽しそうにチョコレートを選ぶ女性陣の中に入り込んで行く俺の姿を想像しただけで、ぞっとした。どんな罰ゲームなんだ、それは。
 俺は工場の守衛さんの前を通ると自転車に跨ってから携帯のディスプレイを見た。チョコレートを貰いに行ったお陰で休憩中のおばちゃんたちと立ち話してしまって――正確には立ち話に巻き込まれて――少し遅くなってしまった。
 腹の虫が鳴るのを宥めながらペダルを漕ぎ始めて、ふと思い出した。
 そうだ、柘植に呼ばれていたんだった。


 自転車のペダルを漕ぐたび、頬を切るような冷たい空気に顔を顰めて走ること数分で、柘植の家に着いた。柘植の家は俺の家よりもバイト先に近い。もう少し日が長くなればバイト帰りによることも頻繁になる。
 俺は門前で自転車を止めると携帯のアドレス帳から柘植の名前を出した。
 ランキング表示にしている俺のアドレス帳には一番上に柘植の名前があった。メールの回数も電話の回数も、いつの間にか柘植が一番多い。殆どが馬鹿な会話だけど、柘植は何よりもメールの返事が早いし、俺から柘植への返事も早いらしい。お互い彼女とかいねーしな、というのが慰めの言葉になってるけど、柘植は本当は彼女の一人でもいるんじゃないかと踏んでいる。他の奴らより飢えた感じがしないし、無駄に女の話がなくて俺は気が楽だけど、珍しい感じがする。
「あき」
 電話をかけるなり、二階の柘植の部屋の窓が開いた。電話鳴ったか?と思うほどの速さだ。
「誕生日おめでとうー、……って言って欲しくて呼んだわけ?」
 バレンタインで、しかも誕生日だ。彼女がいればとっくに仲良くやってるか。
 俺は自分の想像を自ら打ち消しながら、何も持ってきてないよと両手を広げて見せた。
「あき、飯は?」
 柘植は俺の答えを聞く前から手招きしながら言った。そう言えば、柘植の家には柘植の部屋以外に明かりが点いている窓がない。誕生日に家族皆で祝えとは言わないけど、さすがに一人はきついんじゃないだろうか。柘植の家族ってそんなにドライなんだろうか、それとも俺の家族というものへの偏見が過ぎるだけだろうか。
「今バイトから帰ってきたばっかで食ってないけど」
 バイト先を出る前に鳴った腹を見下ろして答えると、柘植が屈託なく笑って、二階の窓を閉めた。しょうがなく自転車を降りてスタンドを立てた俺の目に、死んだように真っ暗だった家が徐々に明るくなる光景が映った。柘植が自分の部屋を出て明かりをつけて歩いているんだろう。柘植の通る道に暖かい光が灯っていくのが見えてくるようだ。
 柘植にはそんな印象がある。
 多分これは俺だけが感じていることじゃないだろう、柘植には光がある。いつも馬鹿なことを言って笑っているし、人懐こくて、憎めない。暗い家を明るく照らし、枯れた花を再び咲かせることだってできそうなそんな気がする。
「あき、何やってんの?」
 寒かろうー、と玄関を開いた柘植が怪訝そうな顔で俺を見ていた。そうやってあっけなく扉を開いて、自分の距離に相手を招き入れる。
 もし柘植が彼女に恵まれていないのだとしたら、その懐の広さが同年代の女子には不安に感じるのかもしれない。柘植がもてていそうなのに彼女の気配を感じないのはきっとその所為だ。よほど出来た女じゃないと柘植には勿体無い。
 お邪魔します、と頭を下げてから門を開いて玄関に向かうと、柘植は広い玄関に大輪の花を咲かせるような勢いで笑った。
「飯あんの?」
 ないなら帰る、と告げると柘植はピザ?と疑問系で返した。やっぱり家族はいないようだ。
 俺は他人の家族構成にも家族の事情なんてのにも興味がないから聞いたことがないし聞く気もない。それでも中には自分の家族の文句を言うような奴がいたり、親に不平を言う奴もいる。柘植はそれを黙って聞き流しているだけで、咎めようともしないし自分の話もしない。俺が柘植とつるんでいるのが楽なのはそういうところもあるのかも知れない。
 柘植といるのはいろんな面で楽だ。似ているのかも知れない。
「……生き別れの兄弟?」
 俺が呟くと、柘植がきょとんとした顔で俺を見下ろした。その顔はちっとも俺に似ていなくて、俺は思わず噴出してしまった。