甘いくちびる(4)

「何だ、食うもんあるじゃん」
 リビングに通されると、カウンター式に見えるダイニングにケーキが置かれていた。
 食うものもあるし、何よりもその手作りと思しきシンプルなケーキには家族の情を思わせた。母親が作っていてくれたのだろう、チョコレートケーキ。何らかの事情で今ここにいないとしても、こんなものを作ってくれるような家族がいるってことだ。
 俺はケーキなんてどうやって作るのか知らないけど、中には趣味で作るのが好きな人だっているようだけど、やっぱり何もないのとは違う。
「そりゃデザートっしょ?」
 チラシを見つけてきた柘植がコードレス電話機を片手に目も振らずに言う。親との間に何かあるかのような、無関心さに見えた。
 俺は他人の家族の事情には興味がないけど、それでも柘植がこんな風に他人に無関心でいることがひどく不自然に思えた。
「でも、一緒に食べようって作ってくれたんじゃないのか」
 勿論そうとは限らない。世の中にはいろんな人間がいるし、おためごかしにこんなものを作ったなんてことも考えられる。だけど、俺は思わず口に出してしまった。柘植を探ろうとしているかのように。
「へ?」
 コードレスを手にしてソファの肘掛に腰掛けた柘植が、俺のらしくもない言葉に目を瞬かせて顔を上げる。
 しまった、と思ってももう遅い。言ってしまった言葉を悔いるような馬鹿ではないけど、もしこれで柘植との関係が今までのように居心地の良いものではなくなってしまったらそれは俺の所為だ。
「……まぁ一緒に食おうと思ったんじゃなければ、あんなデカいの作らないわなぁ」
 気の抜けたような顔で柘植は、俺の顔からダイニングのケーキに視線を滑らせた。途端に俺は自分を恥じた。
 何て馬鹿なことを言ったんだろう。柘植の事情も知らないで、酷いことを言ったかも知れないし何か的を外れたことを言ったのかも知れない。何も知らないくせに妙なことを言って、事情を訊く気もないのに。しかも柘植にいつも通りにかわされてちゃまるで一人で笑えない冗談を吐いたみたいだ。
「だから、その」
 顔を覆ってしまいたい衝動に耐えながら俺が視線を伏せていると、柘植が言葉を繋げた。柘植の手の中の電話機が女性の機械音を流していた。お客様がお掛けの電話番号は現在使用されておりません。その無機質な声に何となく耳を傾けながら、俺は視線を上げようとしなかった。上げられなかった。
「……あき、一緒に食ってくんねぇ?」
 柘植の言葉が弱くなった。
 慌てて顔を上げる。やっぱり俺は酷いことを言ってしまったんだろうか、と思った。確かにあんなに大きいケーキを一人で食うなんて寂しいに決まってる。そのために俺を呼んだのかも知れない。それなのに――……。
「あんなん作ったことねェから味は判んないんだけど」
 電話機の通話ボタンを切りながら、柘植が照れくさそうに言った。
「――……は?」
 絵に描いたように、漫画のキャラのように柘植はもじもじとして見せている。わざとらしいことこの上ない。でも、耳の後ろは確かに赤く色づいている。
「俺が作ったんだ、アレ。ほら、バレンタインだし!」
 身を翻して柘植はダイニングに向かうと、その大きなケーキを運んできた。確かに間近で見るとクリームの塗り方が均一ではないし、シンプルな作りというよりもこれは、途中で飽きたというか……上手くクリームを絞れなかっただけじゃないだろうかと思わせる点が幾つもあった。
「……お前自分の誕生日に何やってんの……?」
 唖然としてしまった俺が尋ねると、柘植はケーキをソファの前のガラステーブルに恭しく置いた。何で高校生にもなった男が自分の誕生日にケーキに初挑戦なんかしなきゃいけないんだ。今日はバレンタインだからって言ったって、バレンタインだからこそ、じゃないか。
「つか、坂巻辺りからチョコとか貰ってないのかよ」
 ふと、坂巻の顔が浮かんで言った。さすがに当日に誕生日だと知ったらそこまで用意できてないかも知れないけど、バレンタインは前もって判ってることだし。
「貰ったよ?」
 ケーキのラップを取りながら柘植は事も無げに答える。この事も無さ加減が柘植がもてることへの何よりの証明だ。もしかして俺がこうしている間にも柘植の家に誰か訪ねて来るかも知れない、もしかしてそれを見越して俺を呼んだりとかしたんだろうか。
「これはあきちゃんに、俺からのチョコー」
 直径18センチほどのケーキを切り分けようともせずフォークを突き立てると、一口分掬いとって柘植が立ち上がった。何言ってんだと聞き返すことも忘れて立ち尽くした俺に、そのケーキを食べさせようとする。
 何言ってんだ馬鹿――と、俺がノンケだったら素直に笑えたのかも知れないけど
「……告白してんだけど」
 俺の思考を停止状態から更に凍結させる勢いで柘植が付け足した。しかも、有り得ないほど真顔で。
 告白って告白、だろうか。
 バレンタインデーに、自分の誕生日だってのに、男なのに、チョコレートケーキを作ってまで、俺に告白?柘植が?
 黙ったまま、呼吸することすら忘れてしまいそうな俺に柘植は勧めたケーキを容赦なく押し付けた。鼻の下辺りについたチョコレートの香りがするクリームを、柘植が舐め取る。
「あ、思ったより旨い。さすが俺」
 間近で柘植の声が聞こえる。男とこれだけ近付くことなんて何とも思わないけど、柘植とこんな風に顔を寄せることなんかなかったし、しかも今柘植の舌が俺の唇に触った。
 俺にクリームだけ押し付けたフォークを、今度は柘植がぱくんと喰らいつく。そのフォークを持つ手に絆創膏が貼られていた。今日の下校時までは見なかった。ケーキを作るのに包丁なんて多用しないだろうし、火傷でもしたんだろうか。火傷の痕はつくんだろうか、ギターの弦を爪弾くその指に。
「……好きとか言った方が良い?」
 ようやく平静を取り戻そうとしていた俺に、柘植が言葉を重ねた。俺が現状を把握できていないとでも思ったのだろうか、いや把握しているかと言われれば自信はないけど
「……何それ……」
 そんな告白の仕方があるかよ、そう続けようとした俺はそのまま気が抜けて床に座り込んでしまった。
 思えば、こんな風に告白なんてされたことがない。ネットで知り合う人もハッテン場で知り合うような人も、先ずはセックスしかしなかったし、可愛いと言われたことはあっても好きとか言われたような記憶がない。
「やっぱ駄目? キモい?」
 へたり込んだ俺を困ったように見下ろして、柘植は何のわだかまりも感じられないようないつも通りの冗談ぽい口調で尋ねるだけで、暫く俺の返事を待った後ケーキにもう一度フォークを突き刺した。デザートじゃなかったのかよ。
「結構うまいよ、あきも食えって」
 フォークとケーキの間を忙しなく往復させながら、柘植は思う存分自画自賛している。腹が空いていたのかも知れない。……俺もか。
「ん」
 柘植の腕がにゅっと伸びてきて、俺の目の前にフォークを差し出した。これを食べたらチョコレートを受け取るということになるのだろうか。俺は受け取りたくないのか、何なんだろう。
 こんな風にバレンタインにチョコレートを貰ったことなんてないから、判らない。
「……俺、何にも用意してないんだけど。……誕生日プレゼントとか」
 フォークから視線を上げて、その向こうに見える柘植の顔を見遣ると、きょとんとしている柘植の顔がゆっくりと笑う。いつも教室で見るような屈託のない表情、とは少し違って見える。何だか幸せそうで、俺の胸を締め付ける。
「別に良いよ」
 俺が柘植の気持ちに応えたわけじゃないのに、どうしてそんなに嬉しそうにするのか俺には判らない。まだケーキだって食べてないのに。
 俺も、初恋の時にきちんと気持ちを伝えていられれば良かったのかも知れない。どうせ一生逢うこともないんだから。
 そんなことを思うのはきっと、柘植の指が教習生の指に似て見える所為だ。
「……いただきます」
 俺はわざとらしく合掌して礼をしてから口を開くと、差し出されたフォークに喰らいついた。