甘いくちびる(5)

 夢がある。
 そのためには、爪が割れたって指が切れたって痛くもないし、勲章のようなものだ。
 何時間だってギターを弾いていられる。
 俺には夢がある。目的なんて明確なものがあるわけじゃないけど、俺はギターが上手くなりたいんだ。
 それで食っていこうと思ってるわけじゃない。バンドを組みたいと思ってるんじゃない。誰かになりたいわけじゃない。ギターが上手くなったら家族に振り向いてもらえると思ってるわけじゃない。
 どうしてこの純粋な気持ちは理解されないんだろう。

「はい、愛」
 バレンタインで浮き足立った一日を終えて、便所を出た俺を待っていたのは坂巻の引き攣ったような笑顔だった。緊張した面持ちは可愛らしいと思える。こういうの何て言うんだっけ。
「マジ?さんきゅー」
 わざとらしく大きく万歳をして、掌を制服で拭ってから恭しく受け取る。包装紙の端っこが坂巻の笑顔みたいに引き攣って、柄の入ったセロテープで止められている。手作りってやつ?
「誕生日だなんて知らなかったから、チョコしか用意してないんだけどさ」
 坂巻の視線が泳いだ。
 ――好ましい、っていうのかなこういうの。可愛いなぁ。
「えー、別にいいよ。ありがと」
 頂きます、ともう一度チョコレートの包みを頭上に崇め奉る。
 しかし何で男に告白するのにチョコレートなんだろう。甘党の男ってそんなに多いのかな。それとも男は年に一回、この日にしか甘いものを摂取しちゃいけないとか。
「……」
 坂巻がちらりと俺の顔を盗み見た。
 こういう視線を俺は知っている。昔は結構得意げに思っていたけど、今はちょっと微妙な心境でその目を見返す。
「開けないの?」
 いつものぶっきらぼうな口調。廊下の端で人の話し声が響いて、弾かれたように坂巻が背後を振り返った。教室で渡せないようなチョコだもんな、そりゃ誰かに見られたら恥ずかしいだろう。でも学校内で渡そうとするって事は坂巻を応援してる友達とかもいるんだろうな。上手くいく報告とかを待ってんのかな。
 どうして女の子はみんな、群れたがるんだろう。
 友達は多いほうが楽しい。俺は友達が大好きだ。愛してると言っても過言ではない。でも、自分の好きな女がアレだとか、告白しろよとか、あんまりそんな会話はしないし好きじゃない。好きなグラビアアイドルの話ならする。ズリネタの話もする。でも、女の子達のとは違う。
 第一あの子が好きだなんて言って友達に横取りされたらどーするんだ。
「開けて良いの?」
 言いながら俺は嬉しそうに包み紙を丁寧に剥がした。
 嬉しいのは確かに嬉しいけど、そうして見せるくらいたくさん嬉しいわけじゃない。というか寧ろ気が重い。
 多分これから数分後にはごめんねって頭を下げることになるんだろうしなぁ。
 それでも、坂巻が慎重に包んでくれたプレゼントの包装紙を破かないように気を付けながら開いていく。自分でも最近いい加減判ってきた。こういうどうでも良いところで気を遣うことが、女の子には優しいとか思われてるんだろう。
 誰だって人を傷つけたくない。誰だって人からの好意には誠意で返したい。優しくしてるんじゃない、きっと俺は優しいんだ。
 自意識過剰の冗談を思って一人で笑いかけた時、チョコレートの入った包み紙の上にもう一つ小さな布袋を見つけた。
「ピックだ!」
 しかも俺の好きなバンドの名前が入ったやつ。実は一枚既に持ってるけど、大事すぎて使えないやつ。
「愛でしょ」
 坂巻が、俺の歓声を聞いて頬を綻ばせた。
 坂巻はすごく良い子だ。面白いし可愛いし、優しいし。俺の馬鹿な冗談を聞いて笑ってる、今のような笑顔には母性が滲んでいて、すごく一緒にいて安心するタイプだ。
「愛だー!まきちゃん超イイ奴ー!ありがとう!めちゃめちゃ嬉しい!」
 プレゼントなんて、気を遣わないで済むくらい安くて実用的なのが一番良い。ピック最高。チョコは手作りで大きくてちょっと難儀しそうだけど、坂巻のことだからきっと美味しく作れているだろう。
「今度それでギター弾いてよ。この間カラオケで歌ってたやつ」
 うん、と俺は素直に首を縦に振って、布袋から出したピックを眺めた。
 坂巻の言葉が途切れる。視線を伏せた俺の顔に、坂巻の視線を感じる。
 この子は良い子だ。多分、俺がごめんなさいと言っても明日にはまた仲良くしてくれる。俺に向けられる視線も変わらないだろう。
 でも本当に俺を見てくれていたらきっと判る筈だ。
 俺が、坂巻と同じくらい真剣に見つけてる相手がいるってことくらい。それともそれを知っていても俺を好きでいてくれてるんだろうか。
 そうかも知れない。
 俺だって、あいつが誰かのことを思ってるのは知ってる。