甘いくちびる(6)

 泣き出しそうな坂巻の傍を早々に離れて、俺は家に駆け込むようにして帰った。
 多分ああいう時は一人になりたいもんだ。坂巻と俺が似ているなら、そう思う筈だ。
 もし違ったとしても、振った相手にやさしくする事はきっと優しくない。
 俺は制服を脱いで、鞄から今日貰ったチョコを出して丁寧に机の上に並べてから長袖のティーシャツとジーンズに履き直した。
 ……バイト何時に終わるんだろう。
 結局聞き忘れてしまったことを今更後悔して俺は時計を見上げた。
 ケーキなんか作ったことないからどれくらい時間が掛かるかも判らない。その上タイムリミットも判らないってどーゆーことよ、などとぼやきながら家の階段を下りる。
 すっかり暗い家の明かりをつけながらキッチンに向かって、俺の強い味方、電子レンジでチンっとすればでっかいカップケーキみたいのが作れるホットケーキミックスに毛が生えたようなお菓子のもとを熟読する。
 ケーキなんか食べたこともないから、上に何を乗っけたら良いのかも判らないしチョコレート味の生クリームだけを塗ることに決めてある。
 こういうのはね、気持ちだから。
 自分に言い聞かせてボールと卵、牛乳を用意した。
 気持ちって言ったって、それこそ明日からあいつは口利いてくれなくなるかも知れないけど。
 ボールにあけた白い粉の上に卵と牛乳を指定の量だけ突っ込んで、菜箸で掻き混ぜ始める。何か粉が舞う。混ぜにくい……。
 変態だとか言われたらどうしよう。言われるならまだ良いけど、怯えた眼とかされたらどうしよう。あいつに限って他人に言いふらして苛められるとかいうことはないだろうけど。
 何とか混ぜ終わった、何かどろどろしたものをお菓子のもとが入ってた容器に戻して電子レンジに突っ込んで。――あとは生クリームだ。前もって探し出しておいた自動掻き混ぜ機……何ていうの?これ。を、取り出す。
 友達じゃなくなるのはしんどいかなぁ……。何も無理に告白とかすることないんじゃないのかな。
 もう一つ出したボールに茶褐色の液体をあけて、攪拌開始。これが何で固まるんだろう、不思議だ。
 ……そもそも何で俺はあいつのこと好きなんだろう。
 ただ何か、他のクラスメートよりも大人びて見えて興味を引かれた。
 話してみたら居心地が良かった。
 同じクラスになってから、暫くはただそうとだけ思っていた。それが、いつ「好き」とか思うようになったんだろう。
 ぼうっとしてミキサーを持っていた俺の手の指先が冷たくなってきた。そうだ、暖房とか入れてないじゃん。
 気が付きながらもエアコンに手を伸ばす間も惜しくて俺は固まり始めた生クリームの中に視線を落とした。
 雨が降っていて
 そうだ、梅雨の時期に雨が降ってる中で、あいつが濡れて帰っていたのを見つけたんだ。
 俺はそれで、あいつに――申し訳ないけど、色気みたいのを見たんだと思う。
 もし今日、聞かれたらそう答えよう。
 答えよう?答えられるか?気持ち悪くないかな。
 うーん、と唸っている内に電子レンジが景気の良い音を立てた。
 ケーキだけに景気が良い、なんつってな。
 
 両親が別れたのは俺が高校に入る直前だった。
 俺の入試が終わったら、ということに、二人の間では決まっていたんだろう。そんなの勝手だ。
 どっちと一緒に暮らしかなんて訊かれて、俺は正直言葉を濁したかった。それが決められる歳だと向こうは思ってたのかも知れないけど、そんなの子供が幾つになったところで決められるような問題じゃない。
 もし本当に俺のことを考えていてくれたなら俺が一人暮らしをするからと答えられるようになるまで待っててくれりゃ良かったんだ。
 でもそれだって俺の勝手だ。
 俺は収入が安定した父親について、まだ幼い妹は母親に連れて行かれた。
 もともと帰りの遅い父親は更に帰宅が遅くなって、俺は家族と一緒に暮らしていた大きな家に一人で過ごすようになった。
 それを、寂しいとは感じないようにしていた。
 寂しいと思ってしまっては負けだ。何に負けて何が勝つのかなんて判らないけど、偶に会える母親にも自分から会いたいとは思わないようにしていた。
 会ってしまったら望む。
 望んでしまったら寂しいと思ってしまう。
 誰にも縋りつきたくない。
 俺は弱い。弱いから、縋りついた相手に拒まれたら悲しくなる。立ち直れない。
 人に優しくするのは好きだ。
 今まで付き合った女の子達には、出来る限り優しくしてきた。お金をかけるような優しさじゃなくて、良い子良い子と頭を撫でてあげるような優しさ。
 女の子は優しい生き物だ。笑う顔とか、甘えてくる仕草とか、気持ちも言葉も全部優しい。体も柔かくて、俺にはすごく落ち着く生き物だと思った。俺は彼女達に優しくされてる分、彼女達を幸せにしようと思った。
 それでもやっぱり別れは来る。物足りなくなったんだろうというのが友達の統一見解だ。
 そうか、俺は物足りないのかと納得してギターを弾く。別に彼女をなくしても悲しいとは思わない。そんな俺に、やっぱり女の子達は物足りなさを感じるのかも知れない。
 追いかけて欲しい女の子達は多い。でも俺は追いかけることが出来ない。縋りつかない代わりに、追いかけない。
 俺は恋愛が下手なのかも知れない。
 なのにどうして、人を好きになるんだろう。
 しかもこんな、厄介な相手を。