甘いくちびる(7)

「……柘植」
 ソファに凭れて微睡んでいた泰明が目を擦りながら起き上がった。俺はそれに気付いていたけど返事をしなかった。何となく。
「もう帰るよ」
 テーブルの上のケーキは半分も食べていない。
「あ、……そうだよな家族の人心配するっしょ」
 努めて明るい声を出した俺に、泰明は苦笑もしないでただ目を向けた。こういう時に無意味な笑みを浮かべないのが好きだ。疲れない。
「ていうか、お前の親も帰ってくんでしょ」
 乱れた制服を直しながら泰明が視線を外す。
 結局俺はまともに告白できたのかどうかも判らないまま、かといって女の子にするみたいに優しく出来もしないし他の友達が女の子にするみたいに強引にセックスすることも出来ないまま、泰明にキスをした。
 キスをして、キスをして、たくさんして、他愛のない話を少しして、そうしている内に泰明がうたたねしてしまった。
 普通、自分のこと好きとか言う同性の友達の前で無防備に寝るか、と思って俺は呆れてしまったけどそんなところも好きだと思った。
 俺は安心されている。俺が安心しているとの同じくらい。
「……いや」
 俺は思わず苦笑を浮かべている自分に気付いた。しまった、と思って口を掌で覆う。あんまりこういう感情を人に見せるのはどうかと思う。
 父親は多分帰ってこない。
 一週間の内殆どは帰ってこないような人だ。休日出勤も当たり前だし、もしかしたら他の女がいるのかも知れない。俺は両親の離婚の理由を正確には知らない。知ってもどうしようもないと思う。
「何?」
 口を覆った俺を、立ち上がって鞄を取った泰明がじっと見ている。わー、やばい。暗い奴だと思われたらどうしよう。
 何も答えない泰明に取り繕う言葉を探して一旦目を伏せると、口元の手に泰明の手が掛かった。何か薬品くさい手だった。バイト先の匂いだ。あの工場の前を通ると同じ匂いがする。
「……ぁ、き」
 手を退けられて泰明を見ようとすると、直ぐ近くに顔があった。慌てて目をぎゅっと瞑ってしまうと、近くで泰明の息を感じた。
 ――笑われた。
 くそ、と思って眼を開けた瞬間また、口付けられていた。
 さっきまで腰が抜けそうな顔してたくせに。
 そりゃ抜けるか……。ついさっきまで友達だった奴に好きだとか言われたらなぁ。
「柘植、あのさ」
 押し付けるだけの口付けの後で、背伸びしたまま額を付けた泰明が掠れた声で言葉を紡いだ。
「お前が知ってたかどうか知らないけど、俺、ゲイなんだ」
 俺の手を退けた指に力が篭っている。俺は吃驚したことと、それを何とか受け止めたくて力いっぱい握り返す。泰明の視線が手の上に落ちた。
「……だから気持ち悪いとか思わないけど……何ていうのかなぁ……」
 考え込んでいるようだ。
 考えてくれるだけでも嬉しい、と言いかけてその言葉を飲み込む。そんな低次元で喜んでちゃ駄目だろう。
「俺は男も恋愛対称だから、それは全然良いんだけど
 柘植のことをそうと思って見たことないから、もう少し考えさせて」
 視線を伏せた泰明が、その手を握った俺の指を撫でている。絆創膏が気になるのだろうか。ケーキを電子レンジから出す時にちょっと火傷しただけなんだけどな。
「あ、ごめん」
 俺はふと気付いて、その手を泰明の手から離した。まるでこれじゃ、帰ると言ってる泰明を引き止めてるみたいだ。
「……俺さ、初恋が忘れられないんだよね」
 手を離された泰明が視線を下に落としたままぽつりと呟いた。
 何故か、坂巻の顔が一瞬過ぎる。
 坂巻は俺を見ている。俺は泰明を。泰明が誰を見ているのか、俺には判らなかった。
「初恋をしたのが、六月でさ。……だから初夏になるとすげー人恋しくなんの」
 泰明の言葉の端に、不意に色気が匂った。
 雨に濡れた泰明を見た時と同じように。俺は泰明に気取られないように咽喉を上下させて、唾を飲み込んだ。
 人恋しくなる、というのは恋人を探すということだろうか。
 クリスマスの時期に恋人を求めたり、バレンタインに求めたり、夏なら海水浴に一緒に行く相手を探したり、そういう世間一般の風潮に似たものが泰明にとっては初夏……つうか梅雨の時期なんだろうか。
 動物が発情するように、泰明がその時期に人恋しいと思う気持ちが滲み出て、俺もそれにまんまと魅せられたということだろうか。
「だから夏になると恋人とかいて、……でも冬になるといない。俺、冬に告白とかされたことないんだよね」
 俺の思考が、泰明の言葉に凍りついた。
 いや、ていうか。
「俺をそーゆーのと一緒に考えないでくんない?」
 思わず声を荒げていた。
 直ぐに気付いて、途中で何でもないことのように口調を作ったつもりだったけど音量はどうしようもなかった。泰明が目を丸くして俺を仰ぐ。
「俺は、普通にお前と付き合いたいとか思ってんの。あ、いや別にあきちゃんの今までのが普通じゃないとか言ってんじゃなくて
 ……一年でも二年でも三年でも一生でも、一緒にいたいとか思ってんの」
 俺は苛ついていたのかも知れない。
 ていうか、嫉妬してたんだろう。俺だって女の子と付き合ったことあるくせに、泰明が他の男と付き合ったことがあるとかいうのがちょっと悔しかったのかも知れない。
 しかもそんな短期間で泰明と別れちゃうような男と一緒にされたのも悔しかったし――もしかしたら泰明が相手を振ったのかも知れないけど、俺が知ってる泰明ならそんな不義理はしないと思うし
 何よりも泰明はいつも寂しそうだ。
 雨に降られた姿を見た時も、寂しそうだった。
 初恋が忘れられないから、初恋の相手を探してばっかりいるから寂しそうに見えるんだろうか。
 俺が
「俺が忘れさせるから!」
 思わず泰明の肩を掴んだ。
 俺はもしかしたら泰明に縋りついてるかも知れない。
 もしかして今、やんわりと断られたのかも知れない。俺はそれを追いかけてしまったのかも知れない。
 拒まれることも考えないで。
「 ――、」
 言葉を失って俺の顔を凝視した泰明が、
 笑った。
 笑顔じゃなくて、吹き出した。
「な、……何だよー……」
 俺にしてみたら一世一代くらいの告白だったんだけど。何かプロポーズっぽかったし。……だから笑われたのか?
「ごめん、……だって何か古いドラマみたい」
 言うと、泰明はたまらないというように声を挙げて笑い始めた。
 俺が忘れさせる、なんて――確かに古臭いかも。俺はトレーナーを肩に纏った石田純一かっつうの。
 腹を押さえて笑いが止まらなくなった様子の泰明の顔を見ていると、俺もなんかすごい可笑しいことをいったような気持ちになって気が付くと一緒に笑っていた。