LEWD(10)

「おはよう」
 私と吉村が朝食を手に駅から会社までの道程を言葉もなく歩いていると背後から声が掛かった。振り返らなくても判る。係長のものだった。
「おはようございます」
 先輩を立てようと思ったのかそれとも単にぼうっとしていたのか、吉村は私よりワンテンポ送れて係長を振り返った。今朝は、身を捩って背後を振り返ることすら辛い筈だ。もう少し翌日のことを気遣ってやるべきだったのかも知れない。
「吉村くん、昨日頼んでおいた書類は午前中に上がるかな?」
 吉村の隣に立った係長が仕事の話を始めても、吉村は嫌な顔一つ見せず対応している。勿論私だって上司にあからさまな態度など出来はしない。それでも気持ちというのは伝わるものなのだろう。
 私がリストラの対象になっても構わないと思うのは係長の存在が大きいようだ。どのような経緯で私がその対象に選ばれたのかは知らないが、彼からの力も僅かながら働いているのかもしれないと思わざるを得ないくらい彼からの敵意を感じる。私が特に何をしたというつもりはない――少なくとも自覚はない――のに、そんな風に邪魔者扱いされるのであれば他所に移った方が気も楽だ。
 それともやっぱり私の認識は甘いのだろうか。この時世で会社に切り捨てられることはもっと恐れるべきなのか?
 若林に言ったらまた呆れられるんだろうと思いながら私は黙って頭を掻いた。会社に近付くにつれ見知った顔が増えてくる。特に、吉村を見る女子社員の中には縁遠い部署なのにも関わらず毎日見ているような気がする顔まである。
 私は係長と談話する吉村をちらりと横目で見てから、女子社員の反応を見た。
 昨夜私が吉村のスーツを裂いてしまった所為で今朝に限り私のものを貸した。趣味が悪いなどと言われたら私の所為だ。
 女子社員の反応に変わったところがないのを確認してから、私は係長に従順な部下を演じるために半歩遅れて歩く二人に挨拶をすると先に部署へ上がった。
 混みあったエレベーターの中で思わず大きな欠伸が出る。性的には年を感じていないつもりでも――若い時に種を無駄遣いしなかった所為か?――肉体的な疲れは避けられない。少しでも気を抜いたら居眠りをしてしまいそうだ。吉村はまだ若いから平気だろう、飲み会で午前様などしょっちゅうだと言っていた。
 夜が白むまで私達は互いの性器を貪り、あらゆる体液を舐めあった。自分があんな風に情欲に素直になれることを知らずに私は今まで生きてきたが、吉村も朝方シャワーを浴びながら、こんな風になったのは初めてだと言った。あの時私達を突き動かしていたものは何だろう。漠然とした、しかし密度の濃い明確な退廃。躰の奥底から無限に湧き出てくる性欲。
 脳裏にlewdのペニスが蘇った。彼の存在が私を駆り立てていたことには疑う余地もないが、吉村にとっても間接的にはそうなるのじゃないだろうか。
「梶谷」
 エレベーターを降りると喫煙所から若林が顔を出して呼んだ。頬に不精髭が見える。昨夜から家に帰っていないようだ。
「早いな」
 私は始業時刻を確認してから招かれるまま喫煙所に入った。今朝はうっかり寝坊しそうになった所為でゆっくり一服している暇がなかった。有り難い。
「あぁ、目黒からそのまま来たからな」
 若林が自宅のある埼玉に帰らない日が出来るようになったのは半年前のことだ。目黒に女を一人飼っている。勿論若林はそんな言い方をしなかったが、私にはそう見えた。出会った時は相手も会社員だった。しかし若林との関係に溺れ、会社を辞めて水商売をするようになった。若林の都合の良いように抱かれ、若林の都内の寝床になり、若林の金蔓になっている。
 私達は暫く黙って紫煙を燻らせた。視線を合わせるでもなく、話をする必要もないような関係だ。
 私は若林に吉村のことを話すべきかどうか少しの間考えて、直ぐに止めた。lewdのことを話すのは面倒だったし、lewdのことがないなら吉村を抱いた、ただそれだけの話だ。若林は男を抱いた私に何の詮索もしないだろう。下世話な冗談も言わないに違いない。それなら何も話さなくても同じことだ。
 喫煙所にいた他の社員が外へ出た。私と若林二人きりになった。
「辞令が出るぞ」
 若林がその時を待っていたかのように低く呟いた。私は顔を上げて若林の目を見た。若林は此方を見ようとしない。
「努力はした」
 若林はその二言を言うためだけに私を待っていたのだろう、それだけ言うとまだ長い煙草を灰皿に落として、踵を返した。喫煙所を出ると、他の社員と睦まじく笑って人事部に戻っていった。
 若林は女にもてる。見た目は私よりも老けているし、仕事以外に趣味もない。冗談の一つも言えないところは私と同じな上に妻子持ちだ。それなのに酒を飲みに行けば必ず女に好かれるのは若林だった。若い連中と一緒に行っても同じ結果だし、若い女の子でもとうのたった女でも、一時間も飲めば若林のことが気になり始める。
 若林は大事な時に、大事なことしか言わない。それがひどく優しいと思う時がある。女はそれにやられるのだろう。眸など見つめない。ただ心だけを真っ直ぐぶつけてくる、そんな男だった。
「……、」
 私は誰もいなくなった喫煙所で暫く一人で煙草を吹かした。

 始業時間間際に部署に戻るともう辞令の噂は殆どの社員に出回っていた。吉村が私の机まで飛んでくる。
「体は大丈夫か」
 よく見るとサイズが合っていないスーツのジャケットに、もう誰か気づいただろうか。いや、ジャケットよりもパンツの長さが合っていない。改めて吉村のスーツ姿を眺めるとひどく不格好だった。
「はい、有り難うございます、あの……っ、梶谷さん、辞令が」
 私は黙って頷いた。吉村は辞令の内容を係長に聞いたのだろうか。私は内容までは知らない。しかし、何処に飛ばされようが最悪首を切られようが、もう覚悟を決めたことだ。気にしていないと言ったのだから気にしなけりゃ良い。若林は私のために骨を折ったのだろう。今はそれを頼みにして辞令を待つだけだ。
「いつ正式に発表?」
 私は始業の時刻を待って席に腰を下ろした。会社員として生きる以上は、時間になったら今後のことなど考えずにやるべき仕事をこなすだけだ。
「来週月曜で、……来月には異動だそうです」
 吉村の声が明らかに沈んだ。そんな僻地に飛ばされるのか。吉村の顔を見遣るとしゅんとして視線を落としている。斜め向こうの女子社員の目が気になった。まるで私が吉村を叱ってるとでも思われているのかも知れない。
「内容を聞いたんだな」
 私は逡巡してから吉村に向かって椅子を半回転させた。仕事の片手間に話していてはますます女性の反感を買うかも知れない。上司に敵視されるだけならまだしも、社内にいる多くの女性に嫌われることは余り得策ではない。私が本当に吉村と話もしたくないなら別だが。
「……」
 吉村は黙って頷く。神妙な顔つきだ。
 ちらりと女子社員を見遣ると案の定此方の動向を観察していた。吉村より一年先に入社した彼女は、有能だし気が利くし、スタイルも良いし可愛らしいと思うのに何故か未だにフリーなようだった。私などには判らない彼女の一面があるのかも知れない。
「そんなに酷いのか?」
 吉村は口を噤んだままだ。私は肩で息を吐いた。女子社員のみならず係長が此方を見ている。何も今聞かなくても来週になれば判ることだ。吉村を自分のデスクに帰そうとした。
「梶谷さん」
 吉村が私の言葉を遮って顔を上げる。吉村が私の名前を呼ぶ声は昨夜から何度も聞いたが、まるで同じ人物のものとは思えない。昼間は好青年のようであっても、一皮剥けばあんなに淫乱になるのだ。私も吉村とつきあって暫く経つが、まるで知らなかった。知らなくて当然だが。
「……今日、お宅に……あの、少しだけで良いですから……伺って、良いですか?」
 吉村は内緒話をするのが下手だ。声を潜めると余計に怪しまれてしまう。その癖潜めた声が周りに筒抜けだから、まるで内緒話の役割を果たさないのだ。
 頭脳は良い、仕事もできる、人当たりも良いが、まるで子供のようなところが多くあった。
「良いよ」
 私は答えながら、早々に仕事に戻った。吉村の下手くそな内緒話は係長の耳にも届いているだろう。