LEWD(14)

 翌日事務所に出勤すると私の机から書類の束が消えていた。
 結局昨夜いっぱいでチェックすることが出来ずに朝一番に続きを確認しようと思っていたのに。
「田上さん、此処にあった書類、覚えてませんか」
 向かい合わせた女子社員に駄目もとで尋ねた。
 誤りがあるのならプリントアウトはし直さなくてはならないが、間違いのあった部分だけを出力するのと全てをし直すのとでは時間のロス大分違う。事務所にある古い複合機はパソコンの出力中、ファックスの送受信が出来ないのだ。私が書類をなくしたなどということになれば、また社長の息子に小煩く言われるに決まっている。
「あ、……若社長が」
 女性は声を潜めて答えた。若社長というのが彼の通名で、工員達も皆そう呼んでいる。彼はそれで満足なようだが、裏では我が儘放題の「若社長」を揶揄するように使われていることが多いようだ。
「加賀見さんが?」
 田上という女子社員の視線に促されるように、社長の息子の席に目を遣ると書類が載っていた。
「自分で持っていかれたんですか」
 前にも一度同じようなことがあった。彼が間違いだと思ったことが間違いでなかった場合、詫びることを知らない彼は黙ってその仕事をなかったことにしてしまうのだ。
「はい、多分間違いはないんだと、……」
 田上さんが口を結んだ。振り返ると、金髪の青年が立っている。私には彼の勘違いで残業させておいた癖に、自分は工場の二階にある自宅で今までぐっすり眠っていたという顔だ。
「おはようございます」
 私が挨拶をしてもむっつりしている。寝起きなのだろう、金髪にも寝癖がついていた。とすると書類は私が昨夜帰ったあとに引き取ったのか。いつ、間違いがないことに気付いたんだろう?それとも元から間違いなどないと判っていて私を残らせたのか。
「加賀見さん」
 私は素朴な疑問として訊いてみたくなった。彼は顔すら此方に向けない。机上を探って煙草を見つけ出した。
「昨日の書類、間違いはなかったんですか?」
 田上さんの視線を背中に感じる。青年の肩がぴくりと動いた。
「いーんだよ、残りは俺がチェックしてやるよ」
 吐き捨てるように言うと、回転椅子を立って事務所の出口へ向かってしまった。事務所が禁煙だというわけでもないのに。
 私は一つ嘆息して席に腰を下ろした。田上さんが顔を伏せる。私が彼の機嫌を損ねることは、彼女にも迷惑が掛かるのだ。あまり刺激しない方が良いんだろう、田上さんに心中で詫びて、私は仕事に戻った。

 時計の針が午後四時半を過ぎると退屈そうな青年がようやく昨日の書類を開いた。今日もまた間違いだと言い始めるのだろうか。
「梶谷さん」
 来た。
 田上さんが首を竦めて私の顔をちらりと見た。別に私は怒鳴り出したりはしない。相手はまだ若いのだ。
「これ、書式が全然違う。直して」
 再びファイルを突き返された。しかし本社からのテンプレートに沿って作成しているのだから、間違いはない。私は本社にいる時からずっとこの書式で書類を作成してきたのだから、間違えている筈がないのだ。
「違うというのは?」
 念のため開いた書類の束にも正確に印字されている。何をして間違ってると言われているのか判らない。
「読みにくい」
 投げやりな彼の態度は、自分でも不当なことを言っていると判っている所為だろう。深く追求されたら弱いに違いない。
 私は肩越しに田上さんのデスクを見た。固唾を飲んで私の反応を見ている。逆らわないで欲しいというのが本音だろうか。
「――……判りました、直します」
 本社に送るデータはそのままに、彼に渡す分だけを直せばいいのだ。書式を変えるくらいなら大して時間も取らない。
 彼の要求をのんで椅子に腰を落ち着けると、田上さんがあからさまに安堵の息を洩らした。
 彼女が工員達にお茶やお茶請けを配っているのを毎日見ている。彼女は工員との雑談に興じては静かな声で笑った。品のいい女性だ。彼女がこの会社を去ってしまったら事務所はもとより、工場にも花がなくなるだろう。
「あと」
 青年がにやりと笑って付け足した。
「工場の手伝いも頼むよ」
 
 彼の笑みは、私一人に工場の後片付けをさせようという策略の笑みだったようだ。
 工場には三台の大型機械があり、床の掃除と油の交換をしなくてはならない。私は暫く途方に暮れ、スーツの上着を脱いだ。
 これは手伝いとは言わないだろう。ぼやいても仕方のないことだが、スーツに落ちた重油の跡はクリーニングに出してもなかなか落ちないのだ。いっそスーツでくるのを止めれば良いのだろうか?思い浮かべると、工員は勿論皆作業着だし、社長も作業着を着ている。作業着を着ていない男性はたった一人だけ、かの「若社長」だが、彼はおよそ仕事着とは思えないラフな格好をしている。とても参考にはならない。
「梶谷君?」
 油の交換自体はさして重労働ではない。ただ面倒な作業があることと、私が機械の扱いに慣れていないから時間を食うというだけだ。
「梶谷君、一人で後片付けをしてるのか?」
 顔を覗かせたのは社長だった。
 私はばつの悪い気持ちに苛まれて、苦笑いを返してみせた。私は工場に一人残されて働かされることを苦とは思っていないが、端から見れば屈辱的であろうことくらいは判っている。私がそれを何とも感じないのだと言ってみたところで虚勢だと思われるのが落ちだ。
「……柊か……」
 社長が大きな嘆息と共に呟いた。柊というのは青年の名前だが、久しぶりに聞いて私はその名前が彼にぴったりだと思った。しかしそんなことは今、彼の父親に言えることではないが。
「悪気はない……とは言っても判って貰えないだろうが……気の悪い息子じゃないんだよ、少し悪い癖があるだけでね」 
 社長は申し訳なさそうに私に詫びながら、工場の掃除を手伝ってくれた。
 私の前任者は彼を殴って退社したらしかった。私より若干若い、地元の男だったそうだ。その乱闘で田上さんは全治一週間の怪我を負い、以来若社長を必要以上に怯えるようになったのだそうだが、それ以前は仲良くやっていたらしい。
 自分の悪癖の所為で起きた暴力沙汰で田上さんに怯えられるようになり、そんな田上さんを彼もまた無視するようになったと聞いて、確かに私は田上さんと青年が話しているところを見たことがないと思った。
「柊は、他人とコミュニケーションが取れないんじゃないかな」
 ぽつりぽつりと社長は語った。私は別に彼のことを憎いとは思っていない、しかしそう口を挟めば、誤解されるような気がして黙っていた。
「どうしてあんな子になってしまったのか……判らないけどね、ちょうどあの子が小学校を卒業する頃にお宅さんの会社の下請けを引き受けるようになって……私が忙しくし過ぎた所為なのかも知れないなぁ……」
 下請け業者を国内に広めた時期があった。この工場が本社と提携を組むようになったのもその時期だろう。バブルの走りで、車は飛ぶように売れて部品の生成も間に合わなかった。工場を幾つも抱えても、その工場に無理をさせてより良い製品を目指した。
「大丈夫ですよ」
 私は社長の言葉が終わるのを待ってようやく口を開いた。ワイシャツの裾がやはり汚れてしまった。
「堪えていませんから」
 どうも上手い言葉が見つからず、私はつっけんどんにも取れるような言葉しか掛けることが出来なかった。しかし皆が何とも思っていないとは言えないし、彼を矯正させようとも言えない、まして社長が忙しくしていた所為なんかじゃないなんて気休めは私の言うようなことじゃない。この工場に来てまだ二ヶ月だ、親子間の機微など私の知ったことではない。
 社長は私の不器用な言葉に声を上げて笑った。明かりを落として暗くなった工場に声はよく響き、二階の自宅にまで聞こえないのかと少し気を揉んだ。