LEWD(15)

 書式を直した書類は無駄になることが判っていたが、彼に逆らうわけにもいかなかった。田上さんにも社長にも気に入られたいとは思っていないし、彼らに気を遣う義理もないのだが、面倒を避けるためにそうした。今更理不尽な圧力などどうとも思っていない。
「何考えてんだよ!」
 ホテルで出力した(その方が早い)書類を抱えて出社すると、いきなり怒号が飛び出てきた。事務所には三人しかいない。私が彼の機嫌をものの零点数秒で損ねたのでなければ、怒鳴られる相手は一人しかいない。
「ふざけたこと言ってんじゃねぇよ、ババァがよ!」
 青年に大きな声を上げられた田上さんが小さな体を縮めて竦んでいる。
「おはようございます」
 声を掛けると、両者がはっとしたように私を振り返った。私は手に持っていた書類を加賀見青年に差し出すと、打ち直してきたと告げた。
「本当使えねぇ奴らばっかりだな、死ねよ」
 彼は唾でも吐きかねない勢いで言いながら、差し出した書類を奪い取るように引っ手繰った。
「どうかしたんですか」
 若社長に一礼して席に着こうとする彼女に尋ねると、びくりと肩が震える。
「いえ、あ、……あの、私が悪いんです」 
 話の根元を聞こうとする私を押し止めようと田上さんが掌を向ける。何かミスでもあったのだろうか。
「おばさんが休みを取りたいんだってよ、この忙しい時期にさ、冗談じゃねぇよなぁ?
 ただでさえ使えないエリートさん雇ったばっかでこっちは余裕がねぇっつーのによ」
 ご丁寧に教えてくれた彼の言葉を聞くと、どうも田上さんが悪いことはないようだ。本社でも休暇を取りたいと言って取れない女性がいるが、それは本当に彼女にしかできない企画や仕事があるわけで、パートタイムで雇われているに過ぎない彼女が休めないほどこの工場の電話は鳴らない。
「休みくらい取らせてあげるべきじゃありませんか」
「梶谷さんっ」
 加賀見青年に口答えした私を田上さんが小さく呼び止める。暴力沙汰を恐れているのだろう。恐れてはいけない。彼の父親のように、ただ尻拭いをしているだけでもいけない。何故誰も彼に、本当のことを伝えないんだろう? 田上さんも社長もいなくなった後、誰が彼を助けてくれると言うのだろう。
「就業規則に則って彼女に休暇を与えて下さい」
 青年の顔が見る見る紅潮していくのが判る。
 私は大人になるのに従ってこうしてあからさまに相手に敵意を剥き出しにすることも、怒りを剥き出しにすることも忘れてしまっていた。怒気に満ちた彼の顔を眺めていても怯えも恐怖も思い出せない。かといって余裕なわけではない。私は感情を何処にやってきてしまったんだろう。
「てめぇ、俺によくそんな口が叩けたもんだな……あァ?」
 青年が椅子を立った。田上さんが壁際に後ずさる。殴られるのかも知れない。私はここ数年人を殴ったことなどなかった。他人の子供を孕んだ妻のことも殴らなかったし、怒らなかった。強いて言えば――最近、吉村の肌を打って悦ばせたことならある。
 この期に及んでそんなことを思いだした私自身に笑いがこみ上げてきた。私は自分でも知らなかったことだが、好色家だったようだ。
「何笑ってンだよ!」
 青年が拳を振りかぶった。こうして対峙するまで知らなかったが、彼の方が若干背が高い。今時の若い子はそういうものなのかも知れない。
「君が私達の管理をする人間だから言ってるんだよ」
 私は、拳を構えた彼の腕に手を伸ばして掴みあげた。性欲で手の付けられなくなった吉村を押さえ込むのと同じだ。
「管理者が規則を守らないで、誰が守るんだ? 良いか、君が私達の規則なんだ。しっかりしてくれ」
 腕を捕まれたことに驚いたのか、彼はそれを振り払ったきり二発目を繰り出しては来なかった。盛大に舌打ちをした後、足音を無駄に大きく鳴らして事務所を後にした。

 退社時間間際になるまで彼は戻らなかった。私は青年のいないお陰で仕事がスムーズに進んだが田上さんは一度も口を利かず塞ぎ込んでしまったようだった。
 彼は近所のパチンコ屋にでも行っていたのか上機嫌で帰ってきて、五時の時報と共に飛び出す田上さんを捕まえると休暇をやると言った。
「梶谷さん」
 自分は仕事をすっぽかした癖に私には恒例の残業があるのだろうか。勿論覚悟はしているから私も帰り支度を始めていない。例えば田上さんのように時報と共に飛び出すべきだったのかも知れない。
「工場頼むわ」
 有りもしない間違いを探せと言われるよりはやりがいのある仕事だ。私は黙って席を立った。今日はワイシャツの袖を捲ってみよう、汚れを回避できるかも知れない。
「おっ、やる気満々じゃん。あんた工場の方が向いてンじゃねぇの? いつまでもエリート面してんじゃねぇよ、落ち零れがよ」
 確かに私は落ち零れかも知れない。いや、恐らく彼が思っている以上に落ち零れだろう。若林の力無くしてはこの工場にすら残ることが出来なかったんだろうから。
「加賀見さん」
 工場に通じる扉を潜る手前で私は青年を振り返った。
「貴方も手伝って下さい、今日は働いてないでしょう」
 私は彼が踵を返す前に腕を掴んだ。二階に上がられてしまっては、きっと社長が代わりに手伝うと言い出すに違いない。私が手伝って欲しいのじゃない、彼を働かせたいだけだ。
「冗談じゃねぇよ、お前自分の雇い主に命令すんのかよ」
 露骨に顔を歪めた彼が喚く。私は黙って彼を工場に引きずり込んだ。自分でも驚くくらいの力が出た気がするし、彼も図体の割には軽い躰だった。
「聞いてんのかよてめぇっ」
 加賀見青年は他人に押せ付けられることなど知らなかったのかも知れない、私が無言で力任せに引きずると、ただ暴れることしかしない。此処で大きな声を出せば親が助けに来てくれると思ってるのか。何処まで子供なんだろう。
「離せ、……ッ!」
 私は工場の扉を閉めると彼の口を掌で塞いだ。暴れる彼の背中を機械に押し付ける。元からそんなつもりがあったわけではないが
 油臭い工場の明かりを消した中で彼の躰を押さえつけると、欲情した。