LEWD(31)

 カメラを構えるでもなくデスクの下に射精してしまった私が、引き出しを開いてポケットティッシュを探っているとlewdの画像で埋められたパソコンが短い音を発した。新しくメールを受信したという報せだ。
 駅前で貰った派手な印刷のビニールを破り、中から質の悪いティッシュを取り出すと床に滴り落ちない内にデスクの下を拭った。それからようやく自分の物を拭い、マウスに片手を伸ばす。メールの発信者は若林だった。珍しく自宅のパソコンからのようだ。偶には家に帰っているのだ。彼の奥方の顔を思い浮かべると安堵した。
 件名はない。しかし若林から愛想に満ちあふれたメールなど貰った日にはその方が怪しく思えてしまうから、私は黙って彼の名前をクリックした。
 内容も簡素な物だった。
 若林は必要なことしか言わないし、だから気を付けろ、とも言わない。心配してないんじゃないかとも思えるが、心配しないならこんなメールを寄越すこともしないのだろうから、これが彼にとって精一杯の優しさの表現なのだろう。
 若林からのメールは、郊外の小さな工場を、本社が徐々に切り捨てていく方針だと決定したことを告げていた。

 ホテルに帰る道程で、私は無駄な思考を避けるために携帯電話を開いた。
 この電話を買ったのは東京を出る直前で、吉村に言われるままに最新機種を選んだのだった。私には数年前に買った電話がまだ使えていたし、写真つきのメールも要らない、金を惜しむわけではないが必要のない買い物だった。しかしこうして持ってみると確かに軽い。まるで電話を持っていることを忘れてしまうくらいの軽さだ。
 携帯電話で長時間話すことが多い若者向けにどんどん高性能で軽量の物が開発されているのだろう。デジカメにしたってそうだ。機能は増え、使い勝手が良くなり、更に軽量で小型で安価な物が次々と開発され、市場に出る。人々は今まで使っていた物を捨てて新しい商品の獲得に躍起になる。しかし不景気は回復しない。下請けの工場は見限られ、失業者を増やしていく。
 新商品を買っていく金持ちは誰だ? 欲しい物を欲しいからと安易な気持ちで購入していく者達と、油に作業服を汚して働いても本社の意向で切り捨てられていく者達と、まるで別の国に住んでいるかのようだ。
「梶谷だ」
 携帯電話のコールが三回鳴らない内に若林の声が聞こえた。受話器の向こうは騒がしい。まだ会社にいるのだろうか。
『珍しいな』
 応えた若林の声が笑っている。私は怪訝に思って若林の声の奥の喧騒に耳を済ませた。どうやら彼がいるのは会社ではなく自宅のようだった。子供の声が聞こえる。
「珍しいのはどっちだ、……典子さん元気か」
 会社にいても酒の席でも、愛人の家にいても物静かにしている若林がにこやかにしている唯一の場所は家族の前だけだった。良い「パパ」を演じているのとは違う。やはり彼の帰る家は奥方と子供のそばなのだろう。それならば何故愛人なんて囲うのか、私には判らなかった。以前までは。今なら少しは判る気がする。例えば私が妻と別れてしまう前にlewdを知り、或いは他の男や女と遊ぶことを知っていたら、妻に優しく出来たのかもしれない。
『変わりない。……メールは読んだのか』
 子供の声がすぐ近くでした。若林を――「パパ」を呼んでいる。電話は早めに切り上げたほうが良さそうだ。
「あぁ、読んだ」
 電話中の父親にねだる子供を諌める母親の声がした。元気そうだ。元は私の妻の友達だった女性だ。
『それで? 何が聞きたい』
 ホテルへの道を歩く私の鼻先を風が掠めて行った。どこか潮の香りがする。不意に故郷を思い出した。もう何年も帰っていない。両親の腰もすっかり曲がってしまっただろう。もし私がここで職を失うのであれば、故郷に帰って両親のそばにいてやっても良いかも知れない。
「うちの工場も潰れるのか」
 ホテルの見える公園までやってきた。いつかの犬を連れた初老の男性がベンチで休んでいる。私はゆっくりとその場を横切ってホテルの入り口へ急いだ。
『もうすっかり工場の人間だな』
 私が「うちの」と言ったのが可笑しかったのか、若林の上機嫌な笑い声が聞こえた。別に可笑しいことなど何もない。そう言いかえしてやろうとした時、若林が再び口を開いた。
『潰れるか潰れないかは下請け次第だよ、本社は潰しに掛かってるんじゃない。切り捨てているだけだ』
 ホテルの入り口前で、私は声にする気にもならず首をそっと振った。あの工場は潰れるだろう。社長の代は何とか守っても、息子に手に渡った途端やっていけなくなることが眼に見えている。
『まぁ、気を落とすなよ』
 若林の声は何処までも楽天的だった。郊外まで追いやられてしまった私にはこれ以上落ちるところがないとでも言うように。彼らしくもない。人間には幾らだって落ちるところがある。
 何か言い返そうとして止めた。
 会社をくびになっていてもおかしくなかったような状況を救ってくれたのは若林だ。これ以上彼に何か期待するつもりだったんだろうか。
 職を失うのが少し伸びただけでも有難いと思わなくてはいけない。私は若林に礼を言うと一方的に通話を切った。