LEWD(32)

 翌日には気も晴れていた、つもりだった。工場に飛ばされる前、若林からの宣告を受けても得点稼ぎに走らなかったのは私だ。あの時と同じように「なるようになれ」と思っていれば良いのだ。
 しかし事務所に出て加賀見社長の顔を見るなり気持ちは重くなった。私は今工場の人間だ。工場が切り捨てられたら本社には帰れないだろう。それなのに、近い内に起こるであろう本社の裏切りを私はいち早く知っている。社長にとってはいつも通りの朝が、私には工場停止へのスタートラインに思える。
 塞いだ気持ちのまま自分のデスクに着くと、若社長が寝惚け眼で起きてきた。ずいぶんよく眠れたようだ。私と目が合うなり気まずそうに視線を逸らす。
 彼は工場がなくなったらどうなるのだろう。むろん私の知ったことではないが、彼自身がそれを危惧することで工場を守る力を発揮してはくれないものだろうか。
 胸中で首を振り、私は自分のパソコンを立ち上げた。始業の時刻を前にメールをチェックする。若林から続報が届いていることを知らずに期待しているようだ。しかし点灯したアイコンをクリックするとそれは若林からのものではなかった。
「加賀見さん」
 私は机の上の書類をかき集めると事務用封筒に詰め込んで席を立った。今から東京に向かえば昼前には本社の玄関を潜れるだろう。
「ちょっと、本社に行って来ます」
 メールは吉村からのものだった。工場切り捨ての件に関して話があるという。未来は約束されてるとは言えまだ若輩の彼にどれだけの期待が出来るか判らないが、もし何か私にも手伝えることがあればしておきたい。やるだけのことをしていれば、この何とも言えない蝙蝠のような居心地の悪さからも逃れられるのだ。
 唖然とする加賀見と不安そうな田上さんを振りきって私は事務所を出た。工場に入って社長に休暇扱いで良いと言うと、出張ということにしてくれた。人件費を真っ先に削らなくてはいけないのに、誰のこともくびに出来ない社長らしい言葉だった。

 電車に飛び乗った後指折り数えると、本社から荷物を引き取ってもうかれこれ四ヶ月近くにもなる。表向きは出向という言葉で、実際は左遷以下の扱いだ。
 四ヶ月の間に吉村と週末に逢う予定をつけたことはあったが、結局は翌日に仕事が入って日中、大の男が二人で町中をぶらぶらと歩くだけだった。別れ際に吉村が寂しそうな顔をする。帰ってからメーラーを立ち上げると、lewdのように画像を付けはしないものの吉村なりの卑猥な内容のメールが届いていたりした。
 吉村が私に求めているものが父性に似たものなのか、それとも性欲なのか愛情なのかは判らない。しかし抱かれたくて逢っても、翌日の仕事のためにそれを押し通さない吉村には情欲以外のものを感じないでもなかった。今我々は別の職場にいる。お互いの環境を把握していない。フォローも出来ない。そんな相手に無理させることは出来なかった。
 本社のビルを拝むことが出来る最寄り駅に降り立つと、私は吉村の携帯に電話した。長いこと呼び出し音で待たされたが、長いコールの後で慌てて出た吉村の声が潜められていたので、察しはついた。
「梶谷だ。……何処に向かったら良いかな」
 受話器の向こうの喧噪が流れている。吉村は携帯を持ったまま会社の廊下を早足で進んでいるんだろう。
『すいません、駅まで迎えに行こうと思ったんですけど』
 私も携帯電話を耳に当てたまま改札を抜けた。
 戦後間もなくに買い付けたという駅前の一等地に居を構えた本社ビルは、威風堂々とした佇まいで立派だった。本社を訪ねてくる人間で道に迷ったという話は聞いたことがない。私が十数年も前に新入社員としてこの駅を初めて訪れたときから、それは変わらない。誇らしい気持ちで緊張感に胸を高鳴らせ、心の片隅に妻を置いて顔を上げ、真っ直ぐ本社ビルの頂上を見据えて歩いた。あの道を今は肩を窄めて歩く。
「そんな遠い距離じゃないし、俺はそんなお偉い身分じゃない」
 今はもう心の何処を探したってあの時のような妻の顔はない。私に似ない子供を抱いて疲れた表情をした女が頭を過ぎるだけだ。しかし耳元には吉村の声がしていた。
『でも、そろそろお昼ですから……』
 まるで一緒に昼食を摂るのが当たり前のことのように言う。確かに私が本社にいる頃は当たり前だったのだ。懐かしいような、愛しいような気持ちに襲われた。
「お邪魔じゃなければ取り敢えずそっちに向かうよ、荷物もあるし」
 そう言って電話を切ると、もうビルの玄関前だった。