LEWD(33)

 たった数ヶ月離れていただけだというのに、あの工場の空気が何処か寂れているだけに本社の中は忙しないように見えた。エレベーターに乗り込み、かつて私のデスクがあった階まで上ってようやく私の顔を知った社員に会い、挨拶を交わした。
 加賀見に皮肉を言われてもスーツで出勤することを止めなかったし、工場に勤めるようになってから四ヶ月、その前に本社には何年と通っているのだ。浮いた存在には映るまいと廊下を歩いた。しかしどうも擦れ違う人間からの視線を感じる気がする。
 部外者ならば不躾な視線など投げつけることは出来ない、しかしなまじ関係者であるために注目されてしまうのだろうか。私は知らず足早になって、勝手知ったる部署への扉を開いた。
「梶谷さん!」
 何か居心地の悪い雰囲気に飲まれていた私に、扉を開けた瞬間吉村の声が飛びついた。つられたように周囲の人間が一斉に振り向く。……一層居心地が悪くなったようだ。
「すいません、お呼びだてしてしまって」
 回転椅子を蹴り飛ばす勢いで席を立った吉村が私の元へ駆けてきた。机に向かって背を丸めている係長が上目に私を睨む。じっとりとした、嫌な眼だ。私が彼の前から消えることで彼の疲労感も少しは紛れているかと思ったのだが、そうでもないようだ。以前過労で倒れた時のような、青白い顔をしている。
「今やしがない下請け工場の従業員だ、そんなに畏まることないよ」
 おどけたように私が返すと、デスクに着いたそれぞれの社員がぎこちなく笑った。此処にいる人間の殆ども、加賀見が私によく言うように私のことを「落ちぶれた姿」だと思っているのだろうか。
 そう思われることは構わない。私など若林と吉村の助けさえなかったら今頃日本海を臨む実家で何をしているものやら、だ。
 吉村も私の自虐的とも聞こえる冗談には視線を伏せてしまった。係長だけが私の冗談に気をよくしているようだ。
「あの、その工場の件と――……あといろいろ、お話したいことがあるんですけど」
 幾らか声を潜めた吉村が周囲を窺うように視線をさまよわせる。不意に吉村の髪を撫でてやりたくなったが、そうもいくまい。他の社員は各々の仕事に戻っているが、係長と女子社員の大半だけは此方に神経を向けていることを隠さない。
「吉村君」
 係長が早速声を上げた。久しぶりに聞く声だ。いつも私のデスクに噛り付いていた吉村を係長が呼びつけていた。係長自身、こんな風に吉村を私から引き剥がすことを懐かしいと思ってくれているかも知れない。
「いいよ、他の部署に渡してくる物もあるから」
 こちらも久しぶりに呼ばれたのであろう吉村がびくっと肩を震わせると、私は手に持っていた封筒を掲げて見せた。普段なら郵送するべき書類を、折角だから持ってきただけの用事で、時間が潰せるとは思えないが
 偶には若林の顔を拝むのも良いだろうし、係長の用事だって実際大した用件でもないのだろう。
「じゃあ、すいません。……また、後で」
 後ろ髪引かれる様子を隠すこともなく吉村が私に背を向けた。
 すっかり私の席はなくなっている。当たり前のことだが、どこか不思議な感覚だ。部署が変わったことは何度か経験しているが、今、この大きなビル内の何処を探しても私の居場所はないのだ。脳裏にあの小さな事務所の私のデスクが瞬いた。今はあの席が私の居場所なのだ。
「吉村くん、今日の昼食は……」
 係長の声音は明らかに私に聞かせたがっているようだ。お望み通り視線を遣ると、係長の席の傍らに立った吉村が困惑気味に笑いを浮かべていた。その肩に手が置かれている。
 私が此処を去ってから、彼らの間にも何か変化が生まれたのだろう。吉村は以前あんな風にあからさまな苦笑を浮かべることなどしなかった。