LEWD(34)

 私がいるから係長の吉村に対する執着も度を越すのだろう。小さく首を竦めた私が踵を返して部署を出ると、廊下の端から弾かれたような声がした。
「あっ、梶谷さん」
 聞き馴染みのない声だ。反射的に顔を向けると、ベージュ色のスーツを着た青年が立っている。瞬時にはそれが誰だか思い出せなかったが、どうも私に用があったらしい。つまり今日私が此処に来ることを知っている人物のようだ。
「今ちょっと大丈夫ですか? いや、直ぐ済みますから」
 そう尋ねる相手の方が忙しそうだ。関西弁のイントネーションが残る口調でやたらと早口でまくし立てながら、足早に私に近付いてきて肩を小さく叩く。その馴れ馴れしい仕草で私はようやく青年の名前を思い出した。
「多田くん、だったかな」
 IT部の多田だ。私が今日来ることを吉村にでも聞いたのだろう。
「あっすいません、名乗りもしないで。多田です。お疲れ様です」
 浅黒い肌に口が大きく、体つきこそ逞しい感じではないが人好きはしそうなキャラクターで、とてもパソコンと対峙しているばかりの仕事をしているようには思えないが、実際はかなりやり手だと聞いている。
「あぁ、お疲れ様。……特に急いでないけど、何か用かな」
 多田からの用事など思いあたらない。工場からデータを送るのにパソコンを経由する事は少ないし、今後切り捨てられる工場だというのに今からその方法に変更する筈もない。多田といえば吉村から聞いている話の所為で合コンのイメージが強い、しかしまさかこんな中年に合コンの話はあるまい。
「かなーり前の話なんで、もう解決しちゃったかも知れないんですけど」
 どうも仕事がばたばたしてて、と多田は用件をはっきりさせる前に一人で謝った。確かにIT部と言えば多忙を極める部署ではあるだろう。会社で寝泊まりをする人間が多く、庶務の女の子は郵便物を届けに行くのを嫌がっていた。
「何だか知りませんけど個人的なメアドが流出してたっていう件」
 メアド、と言われてピンとくるまでに数秒を要した。メールアドレスの略のようだ。
 アドレスの出所が判ることでlewdの正体を知れるかも知れないとは思ったが、そのあと直ぐに、何だかんだ言って随所でそのアドレスを使用していたことが判ったからあまり意味を為さない仮説になってしまったのだ。
「あぁ、その件なら……もう良いよ。忙しい合間を縫ってくれたのに、悪いね」
 手の中の封筒を持ち直しながら詫びると多田は「何やぁ」と素っ頓狂な声を上げた。廊下を歩く人々が振り返る。急に私の方に居心地の悪さがぶり返してきた。
「まぁ、もう良いなら良いんですけど。……でも一人に知れるとその人の心ない書き込みとかで不特定の人に知られちゃったりしますからね、気を付けて下さいね」
 多田が何故か声を潜める。つられて私も内緒話をするかのように背中を丸めた。
「書き込み?」
 掲示板などへの書き込みのことだろう、しかし人のメールアドレスをどう悪用するというのだろう。首を捻った私に多田は更に声を潜めて
「いかがわしいサイトに勝手に書き込んだりされたら困るでしょ、例えばそれを会社に見られたり家族に見られたりしたら……」
 梶谷さんの名誉が傷つく、と言いながらも多田は楽しげな笑みを浮かべていた。確かに私には「いかがわしい」ホームページに名前を載っているのを発見されても困るような妻も子供もいないし、会社に見られたところで、今や首の皮一枚の状態なのだから困りはしない。
 しかし多田が笑っているのはそんな私を嘲笑しているわけではない。「いかがわしい」ホームページのことでも考えているんだろう。
「まぁ、実害としてはウイルスが送られてくる程度でしょうから気にしなくて良いと思いますけど」
 にやけた表情を戻しながら多田が付け足した時、多田の胸で携帯電話が鳴った。どうも、社内からの呼び出しのようだ。私には理解しがたい言葉であれこれと話しながら、私に目配せをして廊下を引き返して行った。本当にアドレスの件だけでこの階まで来てくれたようだ。もう四ヶ月も前の話だというのに、律儀な男だ。