LEWD(35)

 ようやく庶務に出向くと私より若い係長が私の顔を見るなり席を立った。
「梶谷さん、お久しぶりです」
 型通りとは言えこういった挨拶は嬉しいものだ。私は大人の台本に書かれているような挨拶を交わして、工場から直接持ってきた書類を手渡した。
「いつ本社に戻られるんですか」
 係長は気の毒そうな表情で言う。
「戻りたい希望はあるんですが、こればっかりはね」
 工場で何か結果を出さないと、などと彼が望んだであろう返事をすると挨拶は終わりだ。気持ちを交える必要はない。ではまたと言って別れる。「また」なんて事はないだろうし、また逢えたところで同じ挨拶を交わすだけの中だ。
 庶務課の扉を潜った時、ちょうど午前勤務終了の鐘が鳴った。昼食に向かおうとする社員が扉という扉から溢れ出てくる。吉村の顔が脳裏に浮かんだ。私は工場に戻る時間も気にしなくて良いし昼食の時間も自由に取れるが、彼は決まった時間に縛られている。こうして一緒に昼食を摂るのも最後だろうし、早く出向いてやらなくては。
 外に食事を買いに出る社員を詰めたエレベーターが下がるのと反対に私は階上へと向かった。
 たとえば私が実家に戻ったら吉村にはそれこそ逢えなくなるだろう。工場と縁がなくなれば加賀見にも逢わなくなるだろう。彼らは相応の機会に恵まれて家庭を持つようになるのだろうか。私は、どうなるのだろう。会社もなく、自分の家庭もなく、愛する人間さえ傍にいないで。
 詰まらない後ろ向きの気分のまま課の扉を開いた。吉村はまだデスクに座っている。
「吉村くん」
 私が声を掛けようと口を開いた瞬間、それを見計らったように係長が吉村を呼んだ。吉村が顔を上げる。何やら細かい数字と向き合っていたらしく、険しい顔つきをしている。
「食事に行こう」
 顔を上げてすぐ私の存在に気付いた吉村が口を噤む。あの、でも、と言葉を濁らせている彼に係長が畳み掛けるように
「この間の田村さんとの食事会の件だけど、その後の話を詳しく聞く機会が取れなくてね」
 言いながら係長は既に席を立っていた。吉村の視線が私と係長の間を小さく往復して揺れている。仕事の話があるなら仕方がない。私は用意周到な係長に降参するように肩を竦めて見せて、踵を返した。

 会社を出ると胸の携帯電話が短く鳴った。ディスプレイの小さい文字を見ると吉村からのメールが来た音だったようだ。
 午後になったらすぐ時間をとるから、工場の話をするから申し訳ないが待っていてくれという内容だった。もちろんその件を聞くまで帰ることは出来ない。或いは今日が週末なら、久しぶりに吉村の身体を、という気持ちはあった。しかし今日は週半ばだし、彼の体調を気遣えば無理は出来なかった。
 会社の裏にある、以前よく入った蕎麦屋の暖簾を潜った。テーブルには幾人か同じ社章をつけた人間が固まっているが、顔を見たこともないような社員ばかりだった。
 カウンターの隅に腰を下ろしてざる蕎麦を注文する。混んだ店内では次々と注文の声が飛び交っている。ランチタイム中は禁煙だ。私は蕎麦が出てくるまでの時間を持て余して携帯電話に手を伸ばした。
 吉村に短く返信した後、ふと電話に内蔵された小さなカメラのレンズに目が行った。何処を押せば撮れるものか、どうしたらメールに添付できるのかも判らない。私にとって身近な未知だったが、ただ一つ頭に閃くものがあった。
 若い連中は殆どがこういったカメラ付携帯を持っているだろう。これを使えば、lewdを野外で調教することも可能なのではないだろうか。