LEWD(36)

 思い付いてしまうと、私は蕎麦が運ばれてきてからも暫く携帯電話を操作する羽目になった。
 lewdのメールアドレスは短いドメインと、lewdというアカウントの組み合わせで、おぼろげながら記憶に残っていた。
 携帯電話の小さなボタンを慎重に押してメールを打つ。直ぐ隣に他の客が座った。万が一メールの内容を覗き込まれでもしたら恥を掻くだろう。
 パソコンのキィボードを打つのと違って、携帯でメールを打つことは何だか気が殺がれがちだった。頭の中で打とうとしている文章が指先から具現化するのにたいへんな時間を要した。
 『仕事の都合で住まいを離れている。そのため端末からの連絡になるが、差し支えなければ其方の携帯のアドレスを教えてくれないか。調教は屋内だけには限らない』
 最後にパソコンのアドレスを付け加えた。私は彼に自分の名前を名乗っは係長と食事をとっているのだろう。加賀見の具合は治っただろうか。
 味わうこともしないでただ、長い炭水化物を喉に通して胃を膨らませていく。私は彼らのことをぼんやりと考える自分に苦笑した。
 私は少しいい気になっているのではないだろうか。多頭飼いを気取っているけれど、結局彼らが最後に落ち着くのは私の処ではないのに。私は貰い手の決まった犬で束の間愉しんでいるだけの男に過ぎない。私は彼らを飼うことなど出来ないのだ。
 ざるに残った最後の一本を箸で摘み上げ、汁に通して口に運ぶ。その時カウンターの上に置いた携帯電話が再び鳴った。lewdからの返信かと期待してディスプレイを覗き込んだが、吉村からの着信だった。
『吉村です、梶谷さん今どこですか?』
 電話を取るなり急いた口調で話し出した。電話口から店内にその声が漏れているんじゃないだろうかと気になって、思わず店内を見渡した。
「蕎麦屋だよ、今、社に戻る」
 言いながら腰を上げ、店の主人に代金を支払うと携帯を耳に当てたまま店の暖簾を潜った。

 昼食を一緒に摂れなかったことを詫びる吉村を黙らせながらビルのていないし、それはまた彼も同じだ。私は彼を自分の中でlewdと呼び、メールの中で彼を呼んだことはなかった。彼は私のことをご主人様と呼ぶことが度々あった。自分を蔑む者を敬うことが彼には悦びなのだろう。
 私はメールが無事送信されるとようやく蕎麦にありついた。今頃吉村玄関に戻った。私に申し訳ないというよりは、自身が残念がっているようだ。
 玄関を入ると足音が聞こえて、電話で話していた筈の吉村の顔が目の前に飛び出してきた。
「本当にすみませんでした」
 互いに電話を切ると、吉村は頭を下げた。受付嬢の視線を感じる。吉村と一緒にいることで感じる微妙な視線も久しぶりだ。
「俺は気にしてないよ」
 エレベーターへと吉村の背中を小突いて促す。我々と同じように昼食から帰った社員で満員だった。
「……気にして下さい」
 二人分の体をねじ込めそうにない筐体を諦めてエレベーターホールで並んで立つと、吉村は小さく呟いた。
「最近、係長がおかしいんです」
 背後に誰かいないかを気にするように吉村が視線を彷徨わせる。係長が吉村に執着するのは今日に始まったことじゃない、それなのに吉村があからさまな態度をみせるのはそれがエスカレートしてきているということだったのか。
「……何か……僕の体をやたらと触ってきて……、その、いやらしい感じがして……」
 午後の勤務に帰る人間の第二波が来た。私達は後ろに立たれて会話が聞かれることを恐れると仄暗い階段へと爪先を向けた。大きなエレベーターが三台も稼働していたらわざわざ階段で移動する人間はいない。実質上この階段は非常階段となっていた。
「それは、お前がいやらしいことを期待しているからそう感じるんじゃないのか」
 五階まで階段で上がるのは相当体力が要るだろうが、話しながらゆっくり上って行けば、話を誰かに聞かれる心配もなく時間がもてる。吉村にも異存はないようで、黙って段を上がり始めた。
「まさか。……梶谷さんに触られるなら、まだしも」
 吉村の顔をちらりと見遣ると表情を伏せている。会社に来てから彼の顔をまともに見ていない気がした。
「男好きのオーラが出ているのかも知れないよ、それに係長が気付いたんだろう」
 意地悪く言うと、盗み見ていた吉村の顔ががばっと上がった。
「……もし、そうなら、……梶谷さんの、所為じゃないですか……」
 頬を薄く紅潮させている。久しぶりに私との情事を思いだしたのだろう。心なしか足取りも鈍い。
「係長とは寝たのか?」
 益々からかってやりたくなって、私が続けると一歩後ろを歩いていた吉村が徐に私のスーツの裾を掴んだ。
「……あんな人と、寝ません」
 はっきりとした口調だ。私のからかいを許せないと言うかのように真っ直ぐ見据えてくる。二階の踊り場で、私は足を止めた。
「あんな人とは寝ないか……、じゃあ他の男とは寝たんだな」
 私が吉村の顔を振り返ると、吉村も足を止めて私と対峙した。僅か視線をうろつかせた後、伏せる。スーツを握らせた手に力が篭もった。
「……最初の内、何度か」
 最初というのは私が工場に行くようになって直ぐの頃のことだろう。今まで週末に何度か逢ったことがあってもそんな告白は聞いていない。そもそも私と吉村の間にそんな関係があったかのような素振りすら見せないほど、他愛のない話しかしなかった。その後で送られて来るメールで吉村の気持ちは伝わっていたが。私がそのことに触れないことで、かえって吉村の欲求が高まるものかも知れないと思っていた節もある。勿論時間的な都合もあったが。
「何処の男と?」
 社内だろうか、という疑問が頭を擡げた。しかし思い当たる人間は限られていて、真っ先に浮かぶのは係長だ。
「……知らない人です」
 私の知らない人間だという意味ではない、吉村自身知らない男のようだ。伏せられた目が深く俯く。私は踊り場の薄汚れた壁に吉村の躰を追い詰めた。