LEWD(42)

 目蓋の裏に加賀見の顔を思いながら暫くコーヒーの香りを嗅いでいた。
 今となっては妻の顔も思い出せない。妻を愛していたような記憶すら疑わしい。情は確かにあっただろう。しかしそれはかつて家族だった者への当然の情でしかない。
 夫婦とは不思議なものだ。長年連れ添い、家族として一緒に暮らしていても、親や兄弟とは違って今、こうして縁を切っていられる。兄弟など自分の半生を別々に暮らしていても、逢えば家族として酒を汲み交わすことが出来る。今、かつて妻だった彼女と再会したら私はどうするだろう。――恐らく私は気付かない振りをして通り過ぎるだろう。彼女もそうするだろう。
 彼女の傍らには私の知らない男と、私の血を継がない子供がいるだろう。私の傍らには誰もいない。彼女には守り、慈しむべき家庭があり、私には家庭も…職も、もうじきなくなるのだ。
 長い道程の中に一人で佇む自分を思い浮かべて、私は頭を緩く振るった。目蓋を開く。
 スーツの内側から煙草を抜いて唇へ運ぶ。灰皿がないことに気付いて背後の店内を振り返ると、禁煙の赤い文字が目に飛び込んだ。コーヒーの風味を損ねるのだそうだ。ばつの悪いを飲み下して一度銜えた煙草を懐に戻す。
 二口、三口コーヒーを嚥下してニコチンを求めている口内を宥めた。手持ち無沙汰の指先を携帯電話に伸ばす。携帯電話を弄って時間を潰すなど、将来を持て余した若者のようだ。
 吉村に意地の悪いメールを送って寄越そうかと思い巡らせて、止めた。彼の性感は只でさえも精一杯張り詰めているだろう。他の場所でならともかく、会社で彼の失態を晒すことだけは拙い。私の所為で彼の出世まで奪うことは出来ない。
 他にメールを送る相手など一人しかいない。もう一度辺りの席を窺うと、私はlewdからのメールを開いた。
 電車の床、誰のものとも知れない気配を周囲に写し取りながらも、見慣れた肉棒がジーンズの中で張り詰めている。初めて垣間見た彼の日常と、いつも通りの彼のふしだらな欲望が綯い交ぜになって携帯電話の小さなディスプレイに広がっている。
 昼過ぎに乗った電車、薄汚れたジーンズ。彼は大学生なのか。或いはアルバイトで生計を成り立てているのか。
 小さなボタンに指を滑らせて返信を打った。スーツに包んだ自分の体が、自然と熱くなった。

『lewdへ
電車の中で勃起していたのか。周囲の男に尻でも弄られたんじゃないか?
何を思って勃起していたんだ、それとも君はいつも張型を仕込んで生活しているのか
電車の中で射精したのか? それとも下車駅の便所か
明日はチンポを縛って射精出来ない状態にして一日を過ごすと良い。勃起したまま一日を過ごせ
お利巧に出来たら此方から御褒美をやろう』