LEWD(46)

 コートを上から羽織っても立ち上る不穏な匂いは隠しようがなかった。数時間を過ぎて電車に乗り込んだ我々は辺りの眼を気にしながら吉村の住むマンションまでの通過駅を過ごした。
 大学生の頃から住んでいるという吉村のマンションにお邪魔するのは滅多にないことで、玄関を潜ると吉村らしく、部屋は綺麗に片付いていた。
 私と彼がこんな関係になる前はこんなに綺麗だと女を連れ込みにくいのじゃないかなどと笑ったものだったが、今や互いの体液の匂いを体中にさせながら、そんなことはとても言えない。
「狭い部屋ですけど、……掛けて下さい、今灰皿お持ちしますね」
 普段煙草を吸わない吉村の部屋に灰皿を持ち込んだのは私だ。吉村が私に懐いて離れなかった頃、お邪魔する機会があって灰皿がないというから持ち込んだ。百円で買った安物だが、吉村はそれを見るとはにかむように笑って「いつでもまた来て下さい」と言った。今思えばいじらしい気持ちの表れだったのかも知れない。当時はそんなこと思いもよらなかったから聞き流していたが。
「ビールにしますか」
 湯呑みを掲げて見せながらキッチンの吉村が顔を覗かせた。
「いや、お茶で良いよ」
 体が冷えている。アルコールよりも先ず熱いお茶が飲みたくなった。床に腰を下ろすと同時に煙草を銜えた。もう長いこと吸わないでいたような気がして、早急に火を点ける。吉村が灰皿と湯呑みを持って傍らに座った。
「梶谷さん」
 紫煙を胸の奥までゆっくりと吸い込む。体中に気怠い重みが広がっていく。煙草というのは麻薬だな、と感じる一瞬だ。
 吉村が湯呑みに熱い茶を注いだ。私の前に滑らせるようにして置く。
「本社に帰ってきて下さい」
 吉村はお茶を差し出すと、言いながら立ち上がってコートを脱いだ。汚れたスーツをいつまでも着ていたくはないのだろう。
「帰りたいのはやまやまだよ」
 答えながら、本当にそうだろうかと自問した。自分の居場所が本社にあるとは思えない。しかし工場でも私は元からいた人間とは一線を置かれているような気がしていた。何処に行きたいわけでもないし、何処にいたいわけでもない。自分の居場所など元々何処にもないのかも知れない。
「工場は、守れるのか」
 紫煙を吹き上げた。吉村の部屋の壁が変色してしまうかも知れない、そう思うと煙草を半ばで灰皿に揉み消した。
「工場に残りたいんですか?」
 吉村が意外そうに訊き返す。加賀見の顔がちらついた。頭を振る。
「やっぱり情は移るよ、……自分が何処にいたいかっていうのは実はどうでも良い。仕事さえ出来ればそれで良いんだ、工場でも、働けるだけ有り難いと思ってる」
 若林のお陰だ。そう言えば、私が電話した時若林がやけに楽天的だったのは吉村がどうにかしてくれるということを知っていたのかもしれない。
「……でも僕は、梶谷さんに本社に戻ってきて欲しいです」
 吉村が俯いた。濡れたワイシャツを脱ぐ手も止まってしまった。
「本社に帰って来られるならそれに越したことはないよ、でも工場を見捨ててくるのはちょっと気が引ける」
 勿論本社から切り捨てられたからと言って工場が即潰れると決まったわけではない。今の社長なら何とかやっていけるかも知れない。しかしそれでも長くは持たないだろう。景気が上向きになる兆しさえ見えないのだから。
「じゃあ、両方実現します」
 吉村はいやにきっぱりと断言した。吉村は将来出世するだろう。それは社内の誰もが知っている。しかし今彼が会社の人事を動かす力は持っていない筈だ。工場を守る力も。五年先は判らない。しかし工場が切り捨てられることは明日にでも決まるかも知れない話なのだ。
「梶谷さんは本社に帰ってきて、工場も切り捨てさせません。それなら良いんですよね」
 勿論、と答える声が掠れて首をただ上下した。しかしそんなことが出来るのか、と尋ねたい私の気持ちは吉村にも通じているだろう。
 吉村はワイシャツから腕を抜きながら、私から目を背けた。
「専務に直談判します」
 専務、と復唱する。専務に我が儘を通せる人脈でもあるというのだろうか。
 吉村が上体を露わにさせて、ワイシャツを丸めた。
「専務には……その、……男性を買う趣味があるそうです、だから……、頼んでみます」
 窺うような視線。私は言葉を失って吉村の顔を見つめた。専務の顔など社内報でしか見たことがないが、初老の何処にでもいるような男だ。そんな男に抱かれる吉村を想像した。