LEWD(48)

 事務所に着くと工場は轟音を上げて稼動していた。この音が止まることを避けるために、私は自分を信頼する男を売ってきたのだ。
 吉村が望んですることなのだと思おうとしたが、どうにも吹っ切れないものを感じて私は目を伏せた。吉村から連絡が入ったら、その計画が上手くいっても上手くいかなくても彼を抱いてやろうと思った。妻の思い出が頭を過ぎる。私の知らない男に抱かれた妻には出来なかったことを――どんな風に抱かれ、どんな風に鳴いたのかと、問い質してやろうと思った。私以外の男に抱かれた屈辱を私に言い詰られるのは彼の望んだ愛撫に違いない。
「梶谷さん」
 事務所の扉を開けると珍しく田上さんが声を上げた。まるで帰ってきた死人でも見るような目つきだ。
「……もう、帰っていらっしゃらないのかと」
 語尾が徐々に弱まる。俯いた彼女の視線が加賀見の席をちらりと盗み見た。まだ午前中ということもあって、彼の姿はなくて当然といった風だった。傍らに置かれたゴミ箱がひしゃげている。何度田上さんが内側から押して直しても、彼に気に入らないことがあると直ぐに蹴り飛ばしてしまうからだ。
「まさか」
 自分の席に腰を下ろしながら答えてから、本当にこの席に座らなくなる日も近い、と実感した。私が本社に帰るにしてもこの工場が本社から切り捨てられるにしても、同じことだ。私がこの席に着かなくなるということなのだ。
 ふと加賀見の顔が見たくなった。しかし彼の活動し始めるまでにはまだ時間がある。私は苦笑を浮かべると、パソコンの電源を入れて仕事を始めた。
 一日席を立ったくらいで特に変わった様子もなく、手元の書類も一昨日のままだ。時間に追われる用事もなく、今日すべきことを明日に繰り上げても充分間に合うようなのんびりした業務。
 昨日見た本社の賑やかな様子を思い返した。社内メールに追い立てられ、いつも何処かで電話の音が鳴り、上司に指示を仰ぐ人間の声、溜息、喧噪。その場にいれば懐かしいとも思えたが、今此処で思い返すと耳を塞ぎたくなるような騒がしさだった。
「田上さん、伝票預かってきました」
 スーツケースを開いて経理から預かってきた請求書を取り出すと、携帯電話が転げ落ちた。メールの着信を報せるランプが点いている。
 伝票を前のデスクに滑らせると、飛びつくように携帯電話を開いた。直感的に吉村からかも知れないと思った。専務との交渉を報せるメールかと。
 『お早う御座います』
 件名にそう記されたメールは、しかしlewdからのもので受信に相当時間を要した。田上さんの様子を横目で窺うと、携帯電話を胸に仕舞って席を立つ。男性用と銘打ってあるが工場の従業員が事務所にでも上がらない限り私を加賀見しか使う人のない便所に躰を滑り込ませた。